あしや温故知新VOL151 伊勢物語の芦屋蛍

 お正月特別投稿  


伊勢物語


「帰くる道遠くて、うせにし宮内卿もちよしが家の前くるに日暮れぬ。やどりの方を見やれば、あまのいさり火おほく見ゆるに、かのあるじの男よむ。

 はるゝ夜の星か河辺の蛍かも わが住むかたのあまのたく火か

とよみて家に帰りきぬ。その夜、南の風吹きて、浪いとたかし。つとめて、その家のめのこども出でて、浮海松の波によせられたる拾ひて、家のうちにもてきぬ。女方より、その海松を高坏にもりて、かしはをおほひていだしたる、かしはにかけり。


 わたつみのかざしにさすといはふ藻も 君がためには惜しまざりけり」伊勢物語八七段

 

「はるゝ夜の星か河辺の蛍かも」これは共に新古今和歌集巻17雑歌に業平朝臣の歌です。古来から芦屋の秀歌として有名な歌です。


 浜辺の蛍は「芦屋蛍」とも呼ばれ、その蛍狩りの行事は芦屋の里の名物だったと言われています。芦屋川、片田川、打出川(宮川)などが流れており、昔は奥山の樹木が茂っていたので葦の茂みに蛍が飛び交い蛍の名所になっていました。芦屋の里と言えば「蛍」だったのです。


 戦前でも芦屋の海岸線近くには湿地が多く、芦屋市立精道中学校付近は浅い沼地で、「夏至近くになると蛍は群れをなして右に左に飛び、またひとつが舞い寄って、まりのようなかたまりとなって、空中を彷徨い・・・これを里人は蛍合戦といい。『業平の魂化して蛍なる』と称した」と芦屋と蛍の繋がりを伝えています。

 

 しかし、昭和30年代になるとさすがに蛍の数が少なくなり、篤志家が(慈善活動や奉仕活動に力を入れる人たちに対して使われる表現)滋賀県守山の源氏蛍を取り寄せ芦屋川に放ち市民を喜ばせて、その数は5万匹に達した記録されています。


 奥池では、蛍狩りをさせるイベントなども行われ、蛍と芦屋、蛍と業平は市民生活の風物詩としてなくてはならないものになっていました。


 これらはすべてが伊勢物語の歌に由来しています。

 蛍の歌で有名なものに新古今和歌集巻三夏歌に摂政太政大臣、藤原良経の歌があります。

「ひさり火の 昔の光 ほのみえて あしやの里に 飛ぶ蛍かな」(漁火の、昔のまま懐かし光が遠くほのかに見えて、この芦屋の里に今も飛んでいる蛍のようだ)


 芦屋の里に飛ぶ蛍を見て在原業平の昔を偲んだものでしょう。しかし、藤原良経は天才です。どの歌も美しいのです。


 伊勢物語の中の芦屋の里は今でも感じることが出来るでしょう。


 芦屋っ子たちは伊勢物語と一緒に育ち、芦屋がいにしえから大切にしていた風雅(高尚で、みやびな趣のあること。また、そのさま)そのものだったと私は思います。


 「参考文献」

芦屋郷土誌 細川道草

芦屋と古典文学 岩城康隆

伊勢物語 現代語訳 石田穣ニ