あしや温故知新VOL41「とれとれ~のイワシ 手て噛むイワシ~」✴️review 18 懐かしのバックナンバー


  芦屋市と西宮市は隣接していますし、打出の浜は「チヌの海」と言われるように鯛の魚影が多くあった漁場です。西宮神社に神前の魚と呼ばれていました。隣接している御前の浜では「御前の鯛」と命名された鯛漁もありました。

 

 大阪湾沿岸漁業の特徴は何と言っても「イワシ」です。

 地引網の盛んな芦屋浜白砂青松の芦屋浜・打出浜・西宮市の御前浜の遠浅の海岸では「エンサア、エンサア」「オーンターン、オーンターン」の漁師の声で地域の人たちが一緒にろくろを巻きます。

 その手伝いのお礼のお土産は「イワシ」です。バケツを一杯にしてみんなが駄賃としてのイワシを持って帰ります。


   新鮮なイワシをトロ箱に入れ「手て噛むイワシやで~」と行商されて行きます。

 芦屋市では、有馬へ抜ける山道「とと屋道」がありますが、これは芦屋の浜の新鮮な魚(とと)を運んだと言われています。「ててかむいわし」とは手に噛み付くほど新鮮だという売り言葉です。


  昭和24年以後は地引網と船曳漁が行われるようになり、イワシ漁は最盛期を迎えます。

打出の浜には獲れたイワシや白魚を釜揚げにする工場を持ち、市場に出荷したり、浜に天日干しのイワシのセイロが並びます。


  芦屋浜の漁業協同組合は私の曾祖父の角之助から2代目の福蔵の時代、「芦屋のじゃこ」を宮中に献上したことから「宮じゃこ」と芦屋でも正式に言うようになったと聞いています。


 また、坪網という仕掛け網漁(定置網)も行われ、この魚が打出浜(横田さん)と芦屋川河口(鈴木さん)が経営されたつり掘に入れられます。昭和30年代のことでした。


「西宮」の「宮じゃこ」が発祥ということですが、元々、芦屋市の漁業共同組合は西宮ではなく、東神戸の深江・青木との関係が深いのです。仲が悪いということではなく、それが漁師の世界なのです。


  つまり、西宮のブランドを芦屋が使うことはまずあり得なかったと思います。これは4代目の組合長だった長谷実がVTRに収録した証言からの考察です。

 芦屋市の場合、現在でも福丸水産(株)として漁業を継続していて「芦屋市の昭和」写真集(樹林舎)にあります。


   昭和30年代後半から「宮じゃこ」作りが減少したと記載されていますが、昭和45年まで浜には天日干しの「じゃこ」を干す加工はしっかりとやっていました。昭和39年に芦屋浜海水浴場が閉鎖されたので監修者が勘違いしたものと思います。

 

また、西宮市のホームページに漁業のことを書いたページがありました。「昭和40年に海水浴場が閉鎖されます。以後、西宮・尼崎・芦屋・神戸の漁業組合が相次いで解散し~」とありますが、神戸市漁業協同組合は現存しておりますし、芦屋市の福丸水産()は神戸漁協に加盟しており、どうも、史実まで忘れ去られた漁業になってしまったようです。


   芦屋市の漁業は芦屋漁業共同組合から福丸水産()に継承され、現在は8隻の漁船で船曳漁を現役で行っています。


   それこそ、西宮・尼崎・深江・青木・住吉の漁師さんたちは転廃業された方が多いのですが、芦屋市だけは阪神間唯一の漁師として現役を貫いています。


  我ら一族はこうやって伝統を守るべく海洋体育館横に芦屋西宮港として漁業を続けるでしょう。