あしや温故知新VOL59 川西町の牧場?

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懐かしのバックナンバーNo6


 精道村の産業は農業と漁業でした。

しかし、新たな産業も行っていたのです。

明治346月助野庄兵衛氏が乳牛10頭を飼育し、明治454月には東洋牛乳株式会社を設立した。


  事業は拡大され、大正には乳牛50頭を飼育して年間の搾乳量も300石(54,000㎏)に達しています。この搾乳量はこの規模の牧場ではかなりの量になります。

おそらく、自然環境が抜群だったのではないかと推測されます。


  また、板井藤吉氏も明治3310月に5頭を飼育し、大正時代には乳牛20頭で、搾乳量は年間150石(27,000㎏)に達していて自然条件の有効利用と芦屋市史には記載されています。


「しぼりたての牛乳」として村民に親しまれ続けました。精道村や本庄・本山村両村もこの東洋牧場の人気の牛乳として購入されたようです。


しかし、昭和208月戦災によって焼失し、再開をされることはありませんでした。

 

本庄村文化史には、

 

   深江の東のはずれにはかつて「深江の財産」としての井戸があった。場所は現在の深江北町一丁目九で、深江の東北の端に位置し、北は芦屋市津知町、東は芦屋市川西町に接するところです。いつ頃にできた井戸かは不明ですが、戦前から酒造会社に賃貸されるなど、水質のいい井戸だったようです。平成71月の阪神・淡路大震災まで存在していましたが、現在は民有地となってその面影はありません。

 

   この記述から東洋牧場で利用された水は当時この地にあった灘の酒造メーカーと同じであったことが明らかであったように、良好な水で育ったものだということです。

 

  この本庄村文化史では、

弥栄金属という会社の敷地には戦前に「東洋牧場」があったことが知られ、牧場へも給水していたと言い伝えられている。牧場は昭和十年の市販の地図にも記載されています。


「東洋牧場」については芦屋市のパンフレットからも明らかになっているように、この牧場の経営者の孫で現在すぐそばの芦屋市津知町に住んでおられ、昭和15年生まれの女性から聞き取りされたものが記載されています。


   この女性によると牧場を経営していた祖父は「相沢武彦」で「牛を飼っていた。東側でブタも飼っていたが、敷地が自己の所有地であったのか借地であったのかはわからない」という。また飲料水に深江の井戸を利用していたかどうかも知らないという。


 近所の住人からは「牧場がなくなり工場建設の時にはこの敷地から牛などの骨がいくつか出てきた。牧場で亡くなった牛を埋葬したのも知れない」という話も聞いた。


 戦前から酒造会社に使われ、戦後は工業用水として機能した深江の村有井戸は阪神・淡路大震災でなくなり、登記簿などの記録からも消え、人々の記憶からも遠のいていく。かろうじて残る資料をつなぎ合わせて井戸が重宝がられた時代を描いたと結ばれています。

 

   深江の地は現在では神戸市東灘区ですが、小学校は精道小学校、警察署も芦屋警察であったように精道村・本庄村とは将来は一緒の市として歩むことが既成事実のようになっていた時代があり、芦屋の歴史を振り返るとこの隣接している本庄村・本山村とは密接どころか既に合併し共存しているような史実がたくさん残っています。

 

 本庄村と精道村は地域活性化をいかに行うかと共に歩んでいた仲間だったのです。