あしや温故知新VOL144  くわし女とちぬの海 古典文学 恩師岩城先生より

 

「清水湧くてふ和泉路のちぬ男とはうまれしに、見まく欲(ほり)するくわし女の芦屋の里に今もあらかむ。無弦弓 河井酔名」明治34年発刊の「ちぬの海」と題する詩の一節です。


「くわし女」とは情が細やかな美しい女性という古語です。

  また、「ちぬの海」は古称の「茅渟の海」と書きます。日本神話の神武東征で、神武天皇の兄の五瀬命が矢を受けて大怪我をしましたが傷口をこの海で洗って治したと言われています。血沼(ちぬ)の海と呼んだことが由来となっています。場所は大阪湾です。


  大阪湾は武庫川、猪名川、淀川、大和川、大津川などの河川が栄養を運ぶほか、明石海峡の海流の早さなどから身のしまった魚が多く獲れ、古くから沿岸漁業が盛んだった。黒鯛がよく獲れたことから、チヌ(茅渟)は黒鯛の別名のひとつになっています。


 話は元に戻して、律令制度の時代は西国へ下る交通の要路として芦屋の駅馬十二疋(※駅馬は駅戸によって飼育され、厩牧令によれば官道の中でも大路の駅には20疋、中路の駅には10疋だったとされています。)が常置され、旅人と遠く陸路のあと、この地で初めて浜辺に打ち出ることになります。それは丁度、都を出て琵琶湖の「打出が浜」に出た感激を詠った「枕草子」と似ています。


 「打出」いう地名がある理由がこれです。軍事上も関門的な要所であったことは会下山遺跡にみられるように「弥生時代」から続いています。

 律令国家の兵部省の主船司(しゅせんし)という役所に船戸(ふなもりべ)というものがありますが、摂津の国には100戸の船戸があり、ちぬの海や灘波津を通過する官公船・私船の監視にあたりました。


 芦屋市船戸町がこれだと言われています。

行基(ぎょうき)奈良時代の日本の僧で寺と僧侶を広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬された人です。


  その行基がこの地に船息院(船着き場)と同尼院を建てています。船息院船、船息尼院(兵庫県神戸市兵庫区)に当時の「芦屋の海岸(うない)」の様子も伺えます。


  このお話は実は岩城康隆先生から頂いた本からの紹介です。


平成2年の秋だったと記憶しております。文学のお話で盛り上がりましたが、先生は「伊勢物語」と芦屋市の繋がりを熱心に調べておられました。


「長谷君、歴史は何も遺跡だけではないんだよ。文学の中にその土地の情景が分かるんだよ」


イマジネーションと創造力。それが文学史の面白さだそうです。

 

 そして、ご自身の蔵書からこの貴重な本を頂戴したのです。


芦屋市立教育研究所「芦屋と古典文学」潮見中学校校長 岩城康隆先生」昭和53920日発行。


 私の母校芦屋市立精道中学校第4代校長でもありました。

 ただ、谷崎潤一郎文学にも精通されていた岩城先生ですが「先生、谷崎文学で子供たちに読ませる小説はないのでは?」「うーん確かに・・・」と盛り上がったものです。

船戸町の由来を先週投稿しましたが、なぜか岩城先生を思い出しました。

このあしや温故知新を先生はどう見ているだろうか?


「芦屋の文学をもっと紹介しなさい」だろう・・・

 岩城先生の解説された文学と芦屋市史はまた、紹介します。


(参考文献)

芦屋郷土誌 細川道草

芦屋と古典文学 岩城康隆