あしや温故知新VOL141 三条町と三条南町芦屋の地名シリーズ14.15

 

 【三条町】

 京都の三条に因んで名づけられたのだとも、条里制の三条によるものだとも言われている。


 前者の説については明治17年(1884年)地域調査の一環として菟原郡深江組戸長、久保平兵衛によって編集された「三条村誌三条村誌三条村開創由書写」には「星霜今ヲ歴ル既ニ五百五拾四年則チ元徳ニ午年(1330)頃、五位源吾兵衛ナルモノ、開創ニシテ京都市街三条ト称ス町名ヲ取テ村号ト為ス」と記されている。


 この記述の元となった三条町に居住する五味家(慶長13年(1608年)に五位から五味に改姓)に伝わる「五位家由緒書写」によると、五味家の先祖は北条家に仕えていたが同家離散とともに諸国浪々の身となり、その後当地に落ち着いて田畑開発に従事したのだという。


 後者は奈良時代の耕地区分である条里制に基づいて付けられたとする説があります。

また、兵庫県史蹟名勝転園記念物調査報告第11号昭和103月、「武庫郡の条里」と題しての研究報告がります。西宮と芦屋の境界である堀切川あたりが一条、精道村中央が二条、三条村が三条となり、本山村岡本あたりが八条にあたるとされています。

 

 明治174月三条村誌によれば小字名には屋敷跡を示す畦垣内や南垣内や江戸時代の本にも三条八幡神社の北側に三条村があったとする文献もあります。三条町の小字名は塚穴ノ場(塚穴之場)・寺内(寺ノ内)・車場・子ジコミ(ネジコミ)・会下(会ノ下)・西畑・ハゲ山(禿山)・大平・安ノ山・松本の全部と岡山・角田・九ノ坪がありました。

 

 昭和19年(1944年)の町名改正では、三条村の三条が付けられました。

この地域の歴史は古く、古墳が多数あるために塚穴や水車があったとされる車場などがありました。


 そして山手中学校裏山には「会下山遺跡」が存在し、三条古墳群遺跡など、芦屋市では歴史のある古い町とされています。


  古くからこの地域は水利でのトラブルがあり、溜池の他、芦屋川一の井手から取水していた東川という用水路を用いていました。東川は当村の他、津知・森・中野・深江の諸村が利用する立会用水路で、貞享4年(1687年)に関係村間で日割で分水する用水輪番制が成立し、井手に最も近い三条村が特に字畦垣地(あぜがいち)の田地への毎日の分水権を得る代わりに、井手から村までの水路の維持・補修が課されていたと記録に残っています。


  しかしこれを巡り争論が繰り返されたため、明和2年(1765年)、畦垣地の取水口に幅九寸、高さ一尺の分水石を伏せ据えて取水量を調節・制限することになったのです。東川の歴史は「あしや温故知新VOL92 東川用水路」を参照ください。

 

【三条南町】

  精道村の時代には三条町と三条南町は同じ大字名の三条でした。

昭和19年(1944年)の町名改正の時に三条を2つに分けました。阪急電鉄の北側を三条町、南側を三条南町としたのです。


  三条南町は町名改正前は、為ノ前(為前)・西良手・小寄・信時の全部と九ノ坪・角田・畦垣内・岡山があり西良手池というため池がありました。この町内には縄文時代から江戸時代まで続く寺田遺跡(あしや温故知新VOL92 東川用水路参照)があり、平安時代の建物群は官衙(役所)でないかと言われています。


  平安の時代から、街の中心地として栄えていたのがこの三条町・三条南町ということです。

 

  三条町と同じ歴史を持つ三条南町は芦屋市の中にあって、その存在感は輝きを失うことのない街なのです。


 【参考文献】

芦屋市史 昭和46年版

芦屋市史 昭和31年版 本編

精道村のあゆみ 芦屋市教育委員会

芦屋の地名を探る 文化振興財団

芦屋の里 島 之夫昭和4

あしやの地名をさぐる 芦屋市文化振興財団

『芦屋郷土誌』細川道草、芦屋史談会1963