あしや温故知新VOL135 芦屋の地名シリーズ9 親王塚町
親王塚町は芦屋市中央部のJR神戸線芦屋駅の北東に位置し、周辺には商業施設や病院なども立地する利便性の高い場所であり、戸建住宅とマンション等が共存する閑静な住宅地が形成されています。(地区計画)
翠ケ丘町と同様に、山手幹線が開通し、沿線の土地利用の変化や地区内の大規模敷地の開発等、現在の住環境にそぐわない建築物の建設が危惧され、それを守る計画も作られています。
町名はもちろん、阿保親王のお墓が側にあるからです。
阿保親王は平安遷都の2年前の延暦11年(792年)に、平城(へいぜい)天皇の第一皇子として生誕。桓武天皇の孫にあたり、在原業平の父です。
本来なら天皇になるべき人物だったのですが、平城天皇が寵愛していた藤原薬子が平城京の再遷都を画策し失敗します。
「薬子の変」(810年)に関わったとされて太宰府に追放され、その後、弘仁15年(824年)に叔父の淳和天皇の恩詔により帰京を許されます。
承和9年(842年)の承和の変の時には謀反を未然に防いだという功績をあげたが、同年に51歳で打出(現在の芦屋市)地でこの世を去ったとされています。
親王と芦屋のつながりは大昔の記録と、打出町の親王寺の文書で伝えられていますが、
それによると親王は打出に住み、この地とこの土地の人々を愛し、親王塚に黄金一千枚と金の瓦一万枚を埋めて、万が一飢饉の時にはそれで飢えを凌ぐようにという「金津山」伝説も残っているぐらいです。(あしや温故知新VOL18参照)
一方で、阿保親王が芦屋一帯を所領して、打出で没したという記録は正史にはありません。
しかし、親王とこの地を結ぶのは伝説や伝承だとしても、今なお芦屋の人々は阿保親王に親しみを持っています。
親王塚の正面にある4対の石燈籠は長州藩主毛利候の寄進とされているが、うち一対が阪神大震災によって失われてしまいました。
長州藩、毛利家とは縁のある私の曾祖父の長谷角之助は摂津の漁師たちとこんなことを年に一度行っていたといいます。
現在の阿保親王塚は宮内庁の管轄で、特に認められた地域の皆さんの力によって運営管理補助をしています。また、毎年12月の命日には正辰祭が行われています。
当時の芦屋浜から親王塚が見えていました。芦屋浜の沖を行く船は帆を下げて親王に敬意を表したと大昔の伝説を再現したお祭りだったようです。
延暦4年(785年)芦屋の地は別荘地として旧貴族たちに人気の特別な地でもありましたから、阿保親王は憧れた地だったこの町を名前として残したということです。
小字名も郷ノ本、堀ノ内は打出の集落であったこともあり、打出親王塚町は昭和の初めから新しい住宅地として発展を遂げた町なのです。
さて、1861年(文久元年)3月23日に打出村字広野の地に陣屋が設けられました。「陣屋」とは江戸時代の役所で、打出陣屋は外国船に対する海岸防備のため長州藩(山口県)が設置したのです。打出陣屋に駐留していた長州藩兵300人が神戸に派兵し、打出浜を見下ろす高台に陣屋を設置と伝えられています。
その大きさは記録では屋敷は2町余り、総敷地面積が5,433坪もありました。この陣屋の所在地は不明なのですが、
芦屋翠ケ丘郵便局の付近に推定される説や阿保親王塚より高台であるはずはない親王塚町付近だという説もあります。
阿保親王は打出の村人にとても愛された人でした。