あしや温故知新VOL132   芦屋の地名シリーズ 8 翠ケ丘町

 

「翠ケ丘町」という町名は町内の阿保親王塚古墳に茂る「翠松」に由来するという説があります。


 この阿保親王塚は平安時代前期の皇族である阿保親王の墓であると伝えられていて、現在も宮内庁の管理下にあり、現地では「親王さんの森」の愛称で親しまれています。(あしや温故知新VOL33参照)


  阿保親王塚は江戸時代の元禄4年(1691年)に阿保親王850回忌を記念して系譜の繋がりのある長州藩毛利氏によって改修されています。

 お墓の周りは356m その中央部に36mの小高い塚があります。

 

 大正末期から昭和初期にかけて、田地や緑地の多かったこの丘陵地帯へ、交通の発達に伴って住宅地が造成されました。


 かつての小字の中には小口谷、久我谷、前ヶ谷、大谷など「谷」とつくものが4か所含まれていることから周辺部は崖地の谷地形であったようで、谷へ盛り土を施して新たに郊外住宅地を誕生させたことが明らかになった証言があります。

 

100年のときの雫」 津田静乃著(翠ケ丘町在住)の中で兵庫県武庫郡精道村打出字谷田。これが翠ケ丘町。翠ケ丘は住民がよびならわした通称であり、それが昭和15年、村から市になったとき正式名称になったものである。

 

「翠ケ丘町」という町名は町内の阿保親王塚古墳に茂る「翠松」に由来するという定説でしたが、肝心なことはこの町名が地域の皆さんの愛称・通称だったことにあります。

 

 谷へ盛り土を施して新たに郊外住宅地を誕生させたことも、津田さんの「小高い丘陵地で宅地に段差があるために、石垣を積んで屋敷を建築した」として周りが住宅化していく様子から貴重な街の形成過程を解き明かすことができます。

 

  昭和19年(1944年)、芦屋市打出の親王塚をはじめとする14の小字から「打出翠ケ丘町」として始まっています。 昭和44年(1969年)51日には町名に冠していた「打出」を取って現行の「翠ケ丘町」へと改名しています。

 

 親王塚町と地名も同じく、阿保親王の由来ですが、親王塚は翠ケ丘町集会所の北に位置し、親王塚町ではく、翠ケ丘町にあります。

 

 1867年、慶応3年徳川慶喜が大政奉還をした同日倒幕の密勅が薩摩・長州・芸(広島藩)に下され、長州藩の約1,000名の兵は3隻の蒸気船とそれに曳航される帆前船(帆船)3隻に分乗し打出陣屋に陣を置いた記録が残っています。

その陣屋の場所がこの翠ケ丘町ではないかと言われています。







参照

昭和38年芦屋郷土誌 細川道草編集

平成9年芦屋市文化振興財団 あしや子ども風土記6集