あしや温故知新VOL131 大坂城と芦屋
2020年7月号の広報あしやの「徳川大坂城東六甲採石場400年」の特集は面白かった。
芦屋市と大坂城のつながりを紹介したものです。
実は昭和37年5月15日に芦屋市教育委員会が発行した(非売品)
「大阪城と芦屋市」がありました。全44ページ芦屋市文化財調査報告第2集です。
不落を誇った、あの大がかりな築城に、芦屋市からも石材が運ばれたことは、市域の各所に残された石材でも想像される。・・「あしや」のそれが多数を占めている・・。
そんな序説からも興味深い報告書です。文化財調査の第2集として芦屋市史の追録として、新しい発見と研究を重ねているものとして、今から58年前(昭和37年)に出版されていたのです。
大坂城築城にあたり、芦屋から石材が切り出されたことは、天正11年8月29日の羽柴秀吉の禁制文よって明らかになっています。
芦屋市では朝日ヶ丘から六麓荘にかけて大坂城築城に際して大きな石切り場があったことが伝えられています。
芦屋市霊園の造成工事においても地下より石割りノミが出土したり、穴が開けられた巨石が発見されています。築城の石には刻印があります。
この調査報告書は、刻印があるものに着目しています。六麓荘町の芦屋学園を始め、春日町の黒川古文化研究所、西山町、月若町、など点在していることや古来、芦屋、三条、城山、剣谷、八十塚、六麓荘古墳群といった横穴式石室を持っていました。
つまりはこの石室は巨石を多量に使っています。また、市内に石に関係する地名が多く残っています。過去にある地名として、岩北・岩宮・岩ヶ平・岩下・角石・赤石ノ場・石仏谷・岩ノ国・石宝殿など枚挙するには切りがないのです。
山から切り出した石を打出の浜から船に乗せて大阪城まで運んだものであることは、刻印石が呉川遺跡や宮川河床遺跡として矢穴石群に残っていますので、芦屋・打出の浜から運び出されたのは明らかです。
その残った石と石垣に使われたものが正確に記されております。
大坂城の石垣には「あしや」と刻まれた刻印石も歴史の証人として残されているのです。
現存、大阪城平面図ならびに大阪城石垣刻印所在別集成図の中に「あしや」の刻印が7つ残っているとされています。
大坂城に行って、芦屋の名前が入っている石を見たいものです。
実在していますので、是非高性能の双眼鏡で見つけてください。