あしや温故知新VOL129 「芦屋市民のうた」と「この町がすき」
「弘報あしや」(当時は弘報と表現されています)創刊号の1ページ目には、
「芦屋市民のうた」が、兵庫県芦屋市が1949年(昭和24年)に作成・発表した市民の歌であることはこの「弘報あしや」にあることとしています。
ただし芦屋市は現在、本楽曲を市民歌としての地位を否定しています。その理由は後程紹介します。
作詞・本間一咲、補作・富田砕花、作曲・大澤壽人。表題は「芦屋市民の歌」と表記され、西宮市の「タイヘイレコード」によってSPレコードになりました。
「弘報あしや」創刊号の記載にある「うた」にこだわってみたいと思います。
「芦屋市民のうた」
1、海風に映ゆる山 青雲にひたす街 あしや
いにしえびととの歌さながら
心遥るばかり美しく
わが汗の日日たのし
あしや われらが芦屋
2、国道も光るかぜ 潮騒のうるむ街 あしや
いろとりどりの花ちりばめ
心ゆくばかり匂い立てと
わが庭に培わん
あしや われらが芦屋
3、いさり火にひらく窓 星かげのなごむ街 あしや
新潮の香りのいぶくところ
心澄むばかりまさやけく
わが夢の夜夜たのし
あしや われらが芦屋
1948年(昭和23年)、芦屋市が「復興に向け市民を一丸にする歌」を趣旨として、市内在住の詩人でこの年に第1回兵庫県文化賞を受賞した富田砕花らを審査委員に迎え、歌詞の一般公募を実施しました。入選者は東京都の小学校教員で戦前から懸賞歌謡の第一人者として知られていた本間一咲先生です。
市からの依頼により大澤壽人が作曲を行い、翌1949年(昭和24年)2月19日に芦屋仏教会館で発表音楽会が行われたと記録にあります。
市制10周年に当たる翌1950年(昭和25年)に発行された『芦屋市勢要覧』に楽譜が掲載されています。また、このSPレコードのB面が「芦屋音頭」であり、歌詞も同時に募集され、それぞれの入選曲を吹き込んだSP盤が残されています。
1990年(平成2年)の市制50周年記念式典での演奏を最後に市が主催する行事での演奏は行われなくなったと言われていますが、以降、市では制定の告示が無いことや歌詞で取り上げられている情景が現状と異なるなどの理由を挙げて市民歌としての地位を否定しています。
山中市長時代、2003年(平成15年)12月31日に著作権の保護期間を満了しました。フォークソンググループ・「紙ふうせん」の後藤悦治郎氏が1998年(平成10年)に市へ寄贈した市民愛唱歌「このまちが好き」があります。
2013年(平成25年)9月29日、市内の「芦屋っ子コンサート実行委員会」が定例演奏会で「芦屋市民のうた」復活演奏を実施したもので、朝始業時にこの曲が市役所に流れています。
故山村悦三議員が平成22年9月9月17日の本会議において質問に立ち、
芦屋市民の歌、私が小学校の三、四年生のときに学校で習い、その後、運動会のときや大きな行事のときに歌い継がれてきたと記憶があります「芦屋市民のうた」を紹介しています。
山中健芦屋市長はこれに対して、
芦屋市民の歌につきましては、現在、すばらしい芦屋の情景も歌った「この町がすき」が市民の皆さんの中に親しまれておりますので、まずは「この町がすき」を定着させたいと思っていますので、芦屋市民の歌の復活までは考えておりませんが、市制施行70周年記念公演「わがまち芦屋」の中で「芦屋市民のうた」を紹介したい。つまり市制70周年に紹介されたのが最後になったのです。
一方、「この街がすき」も市歌として制定されていません。
芦屋市には2つの愛唱歌があったということになりますが、ひとつは戦後復興!ひとつは震災復興!そう考えると両方の歴史をしっかり伝え残しておくべきでしょう。