あしや温故知新VOL126   東山町・東芦屋町にかけて  芦屋の地名シリーズ5

 

 東山町から東芦屋町にかけての山手丘陵地が広がるエリアで、六甲山系が東南へ舌のように突き出た部分にあたり、明治後期の地形図では山は針葉樹林で、丘の上に果樹園が見られ、平地になったところは水田やため池が確認できます。

 明治のころにはのんびりした風景であったことでしょう。

 

  その周辺の集落では近代的な水車産業が営まれ、打出村と芦屋村の境にあった大溝川は水車用の用水路でした。東芦屋の集落でも水車産業は発展、製粉や搾油、伸銅などがおこなわれていました。


  明治38年(1905)に阪神芦屋駅、大正2年(1913年)に省線(後の国鉄、現在のJR)の芦屋駅が開業すると、風光明媚な芦屋の地は別荘地として注目されるようになり、東芦屋の集落に隣接した場所に別荘が建ちはじめ、やがて阪急芦屋川駅が大正9年(1920年)に開業するとその動きは更に加速し、昭和20年(1954年)以後は東山町へと別荘地や郊外住宅地は拡大し、豊かな緑と明るい南向き斜面を生かした邸宅街へと変貌していったものです。

 

   さらに東山町から東芦屋にかけての一帯は、鉄道会社や不動産会社などによる開発とは一線を画し、富豪たちが好きな場所を選び購入し、山林を自由に開発していったとされています。


 竹内才次郎邸の洋館建築を始め、この地域には芦屋の歴史を語るため必要だったものが現存していません。残念ながら竹内邸を含め阪神淡路大震災の影響をうけ、その後に解体されています。

  

 現在このエリアでは、豊かな自然を残す東山町が緑の保全地区指定地域となっています。東山公園内には、地域住民が手塩にかけて育てた美しい花々が咲き誇っています。このエリアの環境の良さを象徴するかのように風光明媚な景色と緑豊かな自然が残る街並みです。

 

 町名の由来は、小高い地形という「東山」がそのまま町名に採用されています。

真谷、小田坂、中山、山ノ口、王地、山添、東添という小字名がありました。

 

 東芦屋町は江戸時代の書籍に小字名と登場しています。これが、由来とされています。

昭和19年(1944年)町名改正以前には7つの小字名がありました。


 変わった名前として地王堂(お堂があった場所)「覚心の車」という水車があったので小字名に残っていますし、他にも山ノ下、藤ヶ谷、津谷、間谷など谷や山にまつわる名前が残っています。


写真は竹内邸






 【参考文献】

 あしや子ども風土記 芦屋の地名をさぐる

  芦屋郷土史 細川道草著

 月間タウン誌:神戸っ子 別冊1999年号