あしや温故知新VOL125  芦屋の地名シリーズ4 山手町

 

 松風山荘という名をご存じでしょうか?かつて六麓荘と並び高級住宅地としてその名は広く市民に知られていました。

 

 現在では、松風山荘旧藤井邸が山手緑地として市民の憩いの場となり、その名が知られるのみである、また、松風山荘住宅地は個人所有地の開発という小規模のもので、正式な地名としても残っていない。「あしや温故知新VOL83 松風山荘」を取り上げていますのでご参照ください。

 

   昭和311117日発行の「芦屋市史 本編」P235にはこう書かれています。

「明治38年阪神電車が開通を機として、阪神芦屋駅付近の芦屋川扇状地を中心に、これら実業家の邸宅が建ち始めた。ついで40年には大阪府立高等医学校校長、佐多愛彦氏が、その専門とする結核病学的立場により、芦屋の山手地帯を阪神間第一の健康地として自ら別荘を建て、松風山荘住宅地の基礎を開いた」

 このように芦屋を代表する昭和4年の開発が始まった「六麓荘」より遥か以前に芦屋市には松風山荘という住宅地の原形が存在していたのです。


 この松風山荘は、小野高裕氏(新潟大学教授)・三宅正弘氏(武庫川女子大准教授)の基礎的な研究によって明らかになっています。

 

 昭和に入って、芦屋市には大きな都市開発の波がやってきました。

 佐多愛彦博士の所有していた2万坪の土地を昭和3年(1928年)ころから日本住宅株式会社社長・阿部元太郎が開発・分譲しています。


 昭和5 年(1930 )の大阪朝日新聞に松風山荘住宅地の広告がありますが、これをみると、百円以上で売買していた土地を六五円まで下げ売り出していた事も分かっています。

(日本建築学会計画系論文集 第618号 山本ゆかり氏の論文でこの松風山荘の具体的な位置などを研究された論文より)


 山手町の地形は丘陵地になっており、大阪湾も眺めることができる最高のロケーション。そのため海も眺められると注目を長く集めています。

 

 1944年に「山手町」という現在の名称になりました。

 小字名には山坂・笠ケ塚・奥山の一部から構成されるこの地域が山手町と呼ばれる由来については、ハッキリわかっていません。一説には1934年に村山手小学校が開校したので、その名称から取ったと言われています。笠ケ塚は山手小学校の北に位置し、弥生時代や古墳時代の土器が発見されています。

 

 山手町には国の重要文化財であるFRライト氏の設計した。旧山邑邸があり、山手町も高級住宅地と呼ばれています。


1種低層住居専用地域に指定されている山手町。そのため低い建物が中心となっており、景観が良い閑静な住宅街が広がっています。建物一つひとつの敷地が広く、外観などにこだわった建物が建ち並ぶエリアです。キレイな街並みになっていることで、山手町の魅力を高めています。