あしや温故知新VOL124  芦屋の地名シリーズ3奥池・奥山

 

 大昔から、 芦屋は日照りが続くと田畑の水不足が発生し、「水の争い」が絶えませんでした。


   当時の芦屋村の村長、猿丸又左衛門安時 (さるまるまたざえもんやすとき)(18281880 明治13)がこのような争いをやめさせるため、芦屋川の上流にある奥山に貯め池を造って、水不足を解消する灌漑工事を開始します。約20余年、ため池がやっと完成し、奥池と名付けられました。


  奥池の水は昭和47年、南西側に造られた奥山貯水池(元の奥池の4倍)と共に飲み水として 今も芦屋市民の暮らしに役立っています。

 

   昭和36年(1961年)、芦屋と有馬を結ぶ芦有ドライブウェイの工事の真っ只中に驚くニュースが芦屋市を駆け巡りました。


 「なんと!工事中にマンモスの化石が発見」されたというものです。


 もちろん作業員が発見したものですが、実は他にも多数の化石があったのです。


  この化石は芦屋市立美術博物館の歴史資料として保管されています

(あしや温故知新VOL35をご参照ください)

さて、


   昭和36年(1961年)芦有道路が開通し、標高約500mの奥池は瀬戸内海国立公園内に位置しており、道路開通後の昭和39年から開発が始まりました。六甲山東麓のなだらかに広がる疎林を生かして、豊かな自然環境の中に低層住宅を中心に、企業の保養所等も建設された地区として発展してきました。

 

   これまで、自然公園法の特別地域内の許可基準や風致地区、近郊緑地保全区域などによる規制と自治会による建築協定など、住民の自然豊かな住環境の保全への熱意により、日本でも屈指の緑豊かで自然に恵まれた良好なまちなみが形成されてきたのです。

 

  芦屋市では、現在の緑豊かな自然との調和を図りつつ低層の戸建て住宅を中心とした良好な住環境を保全、育成していくことを目標とし、極力伐採をさけ、移植するなど保存するように努める住宅地のモデルとなっている地域です。

 

土地の形状はできる限り保全し、また防災面にも配慮し、近隣に影響を及ぼすような著しい土地の形状の変更は行わないように努め、また、開発時において緑地と定められている個所は、保存緑地として緑地を保存する。

 

雄大な自然が育まれており、ハイキングや散策に訪れる人々で1年中にぎわいがあります。


【奥池年表】

昭和35年(196066 兵庫県芦屋ユースホステル開館しました。(奥池南町社有地1000坪は無償貸与)懐かしい、私もよく利用した場所です。

 

  昭和35829 台風第16号が奥池にも襲来しました。西宮市越水字社家郷山(宝殿ゲート付近)で大規模な土砂崩れが発生、現場付近の飯場作業員が生き埋めとなり24名の犠牲者を出し、翌年8月に 宝殿ゲート付近に慰霊碑を建立しました。


  昭和36年(1961 413 奥池ボート営業開始。飲料水を提供する貯水池ですが、貸しボートは楽しかった思い出です。


  昭和39年(1964 4 2 自然公園法園地事業認可、奥池遊園地に本場ハワイから舞踊団を招き、夏に1か月間にわたる歌と踊りの「ハワイまつり」を昭和43年まで5年間開催しています。ハワイアンショーと蛍狩りもあり、私は毎年楽しみにしていました。


  平成12年(2000 331 震災復旧工事完了(1135百万円) 兵庫県芦屋ユースホステル閉館

 

 【参考文献】

あしや子ども風土記 芦屋の地名をさぐる

 

芦屋郷土史 細川道草著