あしや温故知新 Vol121 町名の由来って?

 

 明治17年の芦屋市誌によると、「芦屋村創置年号及び古時名称などの事跡は絶へて徴するに因なし、中興より西芦屋、東芦屋、山芦屋、水車芦屋、茶屋芦屋、樋口芦屋、浜芦屋の七ケ村を総括し偏に芦屋と称す」とあります。

 

 要するに芦屋は海岸の「あしのや」が山麓の良い水が出る東芦屋、西芦屋へと発達した。ついで西国街道に沿う、茶屋芦屋、山ろくに山芦屋(開森芦屋を含む)が開けてここに集落ができ、江戸時代以後、浜手に樋ノ口新田、浜芦屋新田が開発され、一方芦屋川の水を利用して水車出来たので水車芦屋という名も生まれたものである。


 そして明治になってからは、芦屋村は大字が七つとなり、七芦屋の名が有名になったものである。

(兵庫史学第八号芦屋の地名考細川道草)


 打出に残る地名として、

山に関するものや、浜、新田開拓地、寺社や屋敷に関するものが多い芦屋村と比較すると、阿保親王や太平記、打出の小槌、新葉集、打出が「討出なり」という説や地形に関するものややはり古墳や伝説に戻づく小字名が極端に多くなっています。

 

 打出浜は古くは葦屋浜と共に称せられ海外人渡来地であった。新撰姓氏録に葦屋漢人が見え、吉田東伍博士の大日本地名辞書にも、和名抄、莵原郡賀美郷は「芦屋の上郷で打出浜並び、精道村あたりならん」と記している。摂津志にも漢人の浜と称するこの他「渡来せしより」いう旨記され、小字の名にも呉川、浜呉川、下呉川、西呉川などが残っているのを思えば打出の中は相当古くから知られていたようです。

 

 三条村も

 明治17年三条村誌三条村開創由縁書写によれば、京都の人水無瀬式部の三男に源吾兵衛義高なるものこれあり、地曳に背き関東に出て北条家に仕えたが、元徳二年(1330年)故にあって、同家を去り諸国を流浪していた。その時、幼時父の家に召し抱えて家僕永治郎という者に出会い、彼の世話によって当地の来り家を建て、田畑を開き永住した。そして父の旧住所京都三条の名をとり三条村と号した。


 もうひとつの説としては、兵庫県史蹟名勝天然記念物調査報告第11号(昭和103月)「武庫郡の条里」としての報告がありますが、西宮神社の吉井委員の詳細な研究で、武庫郡の中部旧称莵原郡(武庫郡)は武庫、莵原、八部三郡の合称で明治29年三郡であった。条里制についてのものである。


鎌倉時代になって次第に略され、秀吉が検地後は全く忘れられ、坪の名のみが田の小字と残る位になった。


(芦屋市史)吉井委員の研究によれば、西宮と芦屋の境界堀切川あたりが一条で、精道村中央が二条で三条村が三条にあたると言われています。

 

 津知は「辻」「槌」と呼ばれることもありました。

 日吉神社の石の鳥居にも「つちや」と書かれています。旧西国街道から深江辺の津に至る路にあたるから津知というべきだと説と十字路にあたる場所だからこそ「辻」だったという人も多い。

小字名には「六条」「才道」「一の坪」「新景」「保都」この「ほと」ですが、窪地や低地、凹

地を指していると言われています。

実際はこの5つが小字名でした。


 今回から、芦屋市内の町名の由来を定期的に紹介します。