私のおじいちゃん長谷福蔵は初代芦屋漁業協同組合長です。

 戦前に神戸本庄から芦屋までをエリアにした面倒見のいい人だったと聞いています。


 しかし、おばあちゃんは豪傑そのもので、「あい」ばあちゃんは地元でも有名な人でした。

 豪傑というか、、ちょっと考えられなかった人です。

 

 私の父(末っ子)以外の6人の兄弟たちはすべて出征し、海軍・陸軍として戦地の第一線にいました。


 奇跡的にすべての兄弟が生還し、戦死者が1人もおりませんでした。青木の親戚の長谷一族は3名の戦死ですから、まさに奇跡だった。


 海軍の叔父は「戦友たちに申し訳ない」それしか言わなかった。

 

さて、今日で太平洋戦争の話は終わります。

 最後に、

 

 伊藤正徳の「帝国陸軍の最後」、山岡荘八は「太平洋戦史」などを読むと、日本軍は、忠勇義烈、鬼神のごとく勇ましい精鋭部隊揃いの表現がされています。


 無論、軍隊の強弱は、指揮官職にある者の優劣に大きく左右され、また複雑な戦略や戦術において条件が絡むから、そう簡単には言えません。しかし、一方で旧陸軍で、日本一弱いとされた師団が存在したのです。

 その名は「大阪第四師団」。


  日露戦争で連戦連敗、「またも負けたか八連隊」を日本中に喧伝され、それから昭和12年の日中戦争にも一度も出動せず、わずかに昭和8年大阪市内の繁華街で起きた信号無視による交通事故がトラブルに発展してしまった。

 当時の寺内師団長が「皇軍の威信にかかわる」、世間の嘲笑を買った事件が大阪師団唯一の武勇伝だったとされています。この大阪第四師団の佐官がある日、芦屋の浜で捕れた魚を欲しいとやってきた。


 行先は兵隊の食糧ですが、おばあちゃんはこの武勇伝が気に入らなかったのでしょう。


「この戦、日本は負けますわ。米国はストッキングがなくて困っているというけど、そんなもん無くても困らん、ご飯が食べれんで戦ができますかいな。あんたはんらはどこで戦してはりますか・・」そう対応したようです。


 怒った左官が、憲兵隊に通告。おばあちゃんは連行されたようです。


 無事に帰ってきたおばあちゃんは、今度あいつらが来たら、魚はやれんでいい。困っている近所の人たちに分けてあげてほしいといい、浜では、バケツに一杯のイワシや小魚を分けてあげたといいます。


 私が小学5年生の時に家族に看取られながら、88歳の人生を終えました。

 

 お葬式は盛大でした。市役所や地元新聞はもとより、阪急バスでもおばあちゃんの葬儀が案内がされたと聞きます。


 豪快そのもののおばちゃんの大往生です。


 食べるモノがなくて困っていたら、おばあさんが浜で新鮮なお魚を下ったんですよ。

 

 相手が誰であろうと筋を曲げない。困った人がいれば、真っ先に手を差し出した人だった。

 お葬式に来られる方々から、おばあちゃんの話しを聞く私でした。


 そんな話を聞いたことがなかっただけに今でも、おばあちゃんの誰にでも隔たりがない庶民目線は、今でも私の目指すものそのものです。

 

 芦屋川業平橋付近で撃墜された2式戦闘機、ハヤブサ」を見たとき、「なんでんねん。この黒っぽい竹が機関銃ですか?」


 警察官は、おばあちゃんのことはよく知っているし、有名人です。


「もうやめなはれ!また。痛い目にあうよ」と諭したが、全く関係なく。ぽもつりと呟いた。

「これで日本も負けやな・・・・」


 終戦後、浜には第4師団の命令で倉庫や蔵には大量の手りゅう弾や砲弾が運びこまれ、漁船で海中投棄をする任務だったようです。

 

 芦屋の沖が埋め立てられる時、爆発しないだろうか?

 そんな不安が頭を過ぎった懐かしい思い出があります。