あしや温故知新VOL.117  わんぱく少年!防空壕を探検する!8

 

 防空壕は各家庭にあったんですか?当時、昭和3年生まれの呉川町在住の高瀨湊さんはこう答えています。

 

「あの頃は,隣保,隣組という7,8軒並んでいる家がありましたから,78軒で共同防空壕を作りました。みんな暇があれば防空壕作りに駆り出されまして,大人や僕らも全員。土を掘って、その中に下水道の土管,丸い管を横にずうっと5つぐらい埋めて,あとは上に砂をかけて作りました。割と頑丈なものでした。


 まぁ爆弾の直撃やったら駄目ですけれど,焼夷弾ぐらいやったら上に落ちても,土が かぶさっているし,コンクリート管ですから,その中に女,子ども,老人がみんな奥の方に入って,活動できるような人だけが入口におって火を消すという役ですわ。僕ら怖いもの知らずだから,ほとんど防空壕に入ったことないです。いつも防空壕の近くにおってね,空見上げて「あそこに落ちる,こっちに落ちる」と言って,えらいことやったもんですわ。


 まぁ怖い目にあいましたなぁ」そういう経験をしてきたから,大したことではビクビクしませんなあ。


 笑い話ではないのですが、当時の高瀨少年は(あしや温故知新VOL 芦屋市の太平洋戦争 その4)焼夷弾から勇敢に立ち向かい、自身の書いた日記を守ったのです。


 のちに出版された「ある中学生の戦中日記」は刻銘に当時の新聞報道や大本営発表を記録され貴重な芦屋市の被害などを伝える貴重な資料になっています。

 

 私は高瀨さんから直接、幾つかの書籍を頂戴しました。

 そのひとつがこの「中学生日記」なのです。

 

 さて、この防空壕は私が小学校5年生1970年までは、あちらこちらにその姿が見ることができました。


 呉川公園の今の公衆トイレの場所にも、鉄筋コンクリート造の頑丈なものが存在し、近所の悪ガキ連中と探検をしたものです。

 ひんやりとした地下部分には、何故か、包帯らしきものが散乱しており、「ミイラ男」がいるんじゃないか?などの都市伝説が生まれたものです。


 漠然と思ったのは。「ここに何人の人が避難できたんだろうか」8帖敷ぐらいのスペースしかありません。


 そんな頑丈の防空壕もあれば、浜町に有った森下仁丹の敷地の森の中の防空壕は横穴式で今も崩れそうになっていました。


 そこを探検した時は心臓が止まるかと思ったほど、暗がりの中に仏像がたくさん並べられていました。


  その恐怖は今でも忘れられません。

聞くところによると、この防空壕は1度も使われず。仏様や仏像を保管する場所になっていたようです。


 現在は当時の石仏が同じ浜町で祭られています。

 他にも、大きな屋敷跡には防空壕がありました。6~7軒の家族が避難するには小さく、それぞれの家族が避難するような小さなものでした。


 芦屋市に飛来したB29から、ここに退避して過ごした時間はどんなだっただろう。


 そんな思いはありましたが、少年たちは毎日のように防空壕探検を続けていました。


それは、昭和42年の夏休みだった、、。