あしや温故知新VOL115 芦屋市の太平洋戦争6
竹園町にお住まいの永江 勲さんは戦争時代の話を「たゆまぬ平和への歩み」芦屋市発行へ寄稿されています。
永江さんは今もお元気でこのお話を直接お聞きすることができました。
「昭和20年初夏のある晴れた朝,警戒警報のサイレンが鳴り終わってすぐ,西方の高空にB29が1機ポツンと現れ,私たちの方へ向かって飛んで来た。
その時,私たちは神戸のある軍需工場の須磨の寮にいた。20歳だったが理科系の学生なので,入営延期の措置により働いていた。
B29が何か小さな物体を機から離した。それは,朝の太陽の光を受けて銀色に輝いていた。1トン爆弾だった。
その頃の新聞に,あなたに向かってくる飛行機が斜め上方45度の角度の位置で爆弾を落としたら,それはあなたの所に落ちてくる,と書いてあった。私たちは,「どうせ死ぬのなら爆弾と“にらめっこ”でもするか。」と強がって防空壕にも入らず,落ちてくる爆弾をにらんだ。始めは爆弾がB29の後について来た。
そのうちに加速がついたのか,爆弾がB29を追い越してどんどん私たちに迫って来た。 (中略)爆弾を中心にして空中に波紋ができた。ちょうど池に石を投げ入れた時のように,丸い輪が広がっていくのだ 。衝撃波だろうか。爆弾はますます大きくなり,音もなく私たちに近づいて来た。
頭の上に来た時,とてつもなく大きく見え,轟音を残して過ぎていった。助かったと思った。
すぐに大爆発音と地響きがした。落ちた所は,それでも1キロメートルくらい離れていた。後日、落下地点へ行ってみたら,直径100メートルの円内の住宅は焼失。跡に深さ5メートル程の穴があいていた。」(中略)
実はこの1トン爆弾、、、、写真をご覧になると何かに似ていませんか?
バンカーバスターの一種で小型爆弾では有効な攻撃を与えられない巨大な建造物や堅牢な構築物を破壊するために製造されたと言われているものです。
当然、殺傷力は凄まじく、川西航空機甲南工場へはピンポイント爆撃が敢行されたものです。
B29爆撃機は空の要塞と言われいました。日本の戦闘機も果敢に迎撃をしました。
当時の阪神間の防空体制は阪神地区の防空体制が初めてできたのは,昭和16年7月ごろからです。国際情勢がしだいに緊迫化し,国土防衛を考慮しなければならなくなり,中部防空隊が編成され,阪神地区の防空に当たることになります。
この中部防空隊は,翌17年11月中部防空旅団に改編され,さらに昭和18年8月には改編され,その指揮組織及び戦力が強化されて中部防空集団となり,中部軍 司令官の指揮下へとうつっていきます。これは太平洋戦争が3年目に入り,在支アメリカ空軍の活動が活発化し,国土防空の必要が増大したからです。
中部防空集団の阪神地区 における軍隊区分及び配置は,次のとおりです。
西地区隊(尼崎地区)を配置。
独立防空第11大隊と称し,大阪市東部に配置されたが,昭和19年1月改編後,逐次陣地を尼崎に変換し,西地区隊となる)神戸地区隊(主力神戸地区,AA1中隊 明石に配置)防空第123連隊。
阪神地区の防空戦闘 には三式戦闘機「飛燕」のほか,昭和19年末から海軍第332空所属の「月光」(通称「伊丹」)・「雷電 」(通称「鳴尾」)が活躍していました。
「伊丹」や「鳴尾」という。通称名の戦闘機があったんです。
月光【伊丹】は夜間戦闘機。雷電【鳴尾】は局地戦闘機。
高度10.000mの重爆撃機B29を撃墜するために、戦闘機搭乗員は日々の猛訓練を行いました。
短時間で高高度に達する戦闘機は海軍機では後に紫電改。陸軍機なら4式戦闘機、疾風ですが、稼働する機体が少なかった、、、。
次週は
米軍記録から見た阪神大空襲を紹介します。
文中に一部不適切な表現がありますが、史実ですので使用しています。
参考資料は
1億人の昭和史 日本航空史 日本の戦史別巻3 陸軍海軍航空隊の全貌 日本の航空70年の歩み 毎日新聞社 1979年5月発行
芦屋市史本編