あしや温故知新VOL113 芦屋市の太平洋戦争4

 

 昭和3年芦屋市呉川町に生まれ、灘中学校から関西学院高等商学部から神戸経済大学経済学部卒業の高瀨湊さんの「ある中学生の戦中日記」から引用させていただきます。


 高瀨湊さんは呉川町でお世話になった恩人です。その豊富な知識で幼い頃の芦屋市の風景とともに描かれた本が残っています。

 

 中学生の湊少年が刻銘に記録されている。


 昭和20511日金曜日、5前、警戒警報が発令された。B29らしき1機が上空に飛来してた。爆音らしい音が聞こえた。そして、紀伊水道を南方洋上を北進または西北進する相当数のB29があるということだった。930分頃、空襲のサイレンが鳴り響いた。


 そして空では日本軍制空隊が空戦を繰り広げたが、深江の重工業地帯に大打撃を与え去っていった。防空壕には退避して難を逃れたのですが、しかし、湊少年は灘中や芦屋市の宮川小学校に川西航空機(現、新明和工場)から多数の部品やタンクが運ばれていたのを見ている。

 

 芦屋の自宅に帰るまでに多数の遺体や負傷者に出会っている。B292機が大坂湾に墜落し、たことや深江や御影などに炎や煙が立ち込め、芦屋市役所前では頭部に損傷を受けた遺体があった。


 空襲の惨状、被害直後の目撃したこともあって、こんな感情になったそうです。

 「空襲は恐ろしい。しかし、恐ろしいからと言って尻込みする、そんな弱虫ではない。この試練に打ち勝ち、被害を目撃したその時の旺盛な敵愾心を更に発揮し、米英-いな、にくみても余りある米国を叩きのめす迄は、死んでも戦うのだ。


 いや死のうとしても死にきれぬ。身は敵弾に打ち、倒されてもなお、魂は生きて戦うのだ。尚、本日俺は相当数の怪我人や死者を見た。俺はこんなものを見るのは大きらいである。しかし、これを見て、たじろぐような気の小さいことでは、将来軍人として役に立たぬ。俺が涙ながらに之等犠牲者を見た。思い出す毎に興奮する。しかし、何事も全て試練だ。


 今日の貴重な経験を今大いに活用せねばならぬ。最後に、本日の空襲による尊い犠牲者の御冥福を切に祈る。仇はきっと俺んも手でうつぞ!」


 とこのように書いておられます。

 

 当時の中学生が見たこと、感情、怒りが見てとれます。

 しかし、日記はある意味、戦争を客観的に芦屋市がどんな風に空襲されたのかも記録されている資料でもあります。

 

父の感情と同じだったんだ!

私はこの資料から父を振り返る。



つづく