あしや温故知新VOL111 芦屋市の太平洋戦争2
時を超えて「広報あしや」昭和63年(1988年)8月1日号では、芦屋における戦時下の生活を紹介しています。
本市が精道村から芦屋市へと「市制」をしいたのが昭和15年11月。
市の発展もこれからという16年12月8 日,太平洋戦争に突入。国内では,統制経済が実施され,主食類の統制に始まり,みそ,しょうゆ,肉,塩,ミルクなどが配給制となり,その後さまざまな生活日用品が制限されました。
芦屋公園では,国防婦人会の軍事訓練が行われ,士気の高揚が図られました。
また国防婦人会による慰問袋づくりは重要な仕事となり,出征兵士を慰める娯楽物や豆・アメ・手紙・カンヅメ・タオル,武運を祈る千人針などを入れて戦地に送りました。
昭和18年9月に学徒出陣,12月に徴兵適齢1年引き下げとなり,戦況はいよいよ激しくなりました。県立芦屋中学校の生徒の勤労動員が始まり,農作業に従事したり,三木の陸軍飛行場や尼崎などの軍需工場へ出動しました。
昭和19年11月サイパン島が陥落してからは,B29の本土来襲が始まり,本市は,20年5月11日に第1回の空襲を受け,6月5日,15日と相次ぎ,8月5日夜半から6日未明にかけて,いわゆる阪神大空襲を受けたのでした。
阪神大空襲とは
昭和20年8月6日未明、御影・芦屋・西宮の市街地にB29の波状攻撃を受けた。
午前0時25分に先導機が投弾を開始し、第314航空団の125機が御影・芦屋市街を攻撃、続いて第73航空団の130機が御影・西宮市街を攻撃した。市中いたる所に火柱が立ち、猛烈な火災が夜空を焦がし、爆発音が果てしなく轟いた。
この結果、御影・芦屋・西宮の全市街地の約30%を焼失。死者145名。
市役所庁舎や山手・宮川小学校(当時は国民学校)では,市役所庁舎や山手・宮川小学校(当時は国民学校)では,草木で擬装をほどこしましたが,そのかいもなくこの4回の空襲で罹災者は総人口の5割,家屋は総戸数の約4割,学校校舎は実に8割を失ったのでした。
芦屋市立霊園には現在も太平洋戦争空爆殉職者之墓として、犠牲者のお名前が刻まれています。
そして、碑文は
「あの苦しかった 又悲しかった戦争体験は 絶対に風化させてはなりません」
と書かれています。