あしや温故知新 VOL107 恐怖の水害の記憶! 

 

  昭和4278日土曜日だった。

 台風7号の接近で西日本は警戒警報が出ていました。

 土曜日の午前中は学校があった時代です。

現在のように各家庭にテレビがあったわけでもありません。警報を事前に知っていた人は当然、学校には行きませんが、知らない人もした。


 しかし、午前中には雷をともなった凄い雨が降ってきていました。

近所の宮川は当然、増水していましたし、家の横近くにあった。「大溝川」(現在の中央線)は凄い勢いで溢れていました。


 芦屋浜も台風の影響で漁は中止していたし、船を陸に上げる準備におばあちゃんも忙しそうでした。

 父は私に「家は頼んだぞ!男なら皆を守れ!」と言ったまま、消防署へ出勤していった。

 仕事だから仕方がないし、「市民の生命と財産を守る」のが父の使命だと何となくは分かっていましたが、、、「不安」

 そして、夕方から夜にかけて、台風は熱帯低気圧に変わったとテレビで放送していた。

 明けて、79はその弱い熱帯低気圧により西日本一帯で梅雨前線の活動が活発になり,日雨量は芦屋市で 318mm に達しました。


 朝から凄い雨になっていた。

 その日は日曜日のこともあって、家にいました。

 父が作業服のまま、家に一度戻ってきました。「米を袋に入れて欲しい」どうも、消防署で食べるご飯がないようでした。


 私を見るなり、「もとひろ、この雨具使え!水を舐めたらあかんぞ!・・・」小学校2年生の私にそんな話をして戻ってしまった。

 外を見ると夕方よりさらに強くなった雨でみるみる水位が上がってきたのです。

芦屋市の記録では「とくに20 時から21 時まで1 間に58.5㎜の雨量を観測した」とありました。

 

 河川の氾濫により広範囲で浸水したほか,山麓部では崖崩れが多発した。

 この水害を昭和13 年の阪神大水害と比べてみると,「総雨量(神戸市の比較)は昭和13 年の方が多かったが,日雨量や最大1 間雨量は昭和42 年の方が多くなっているなど,集中豪雨の規模そのものに大差はなかったが,被害状況にはかなりの違いがみられた」と神戸市の記録に記載されているように、普段はなんてことのない、私の家の近くにあった、「大溝川」(現在は暗梁になって川はありません)は雨水を排出できず、溢れて道路との境界はわからなくなり、水はさらに増え、とうとう、家の床の下、数センチに迫った。すると、表から声がしたのです。浜で作業指示をしていたおばあちゃんや伯父さん、浜の人たちだった。


 家の前に土嚢を積んでくれた。「これでしばらく大丈夫ですわ。あかんかったら助けにきますわ!」でした。

 その夜は怖かった。停電すること数回!深夜には近所の人たちが見回りに来てくれた。

怯えながら・・・やっと明けて、10日になりました。


 皆で乗り切ったのですが、近所でも家ごと流れた所や床の上まで浸水していた家もありました。

 山手の地域の被害も甚大でした。10日月曜日は臨時休校になっていました。

 

 この時は「昭和427月豪雨」と名付けられましたものの、

 この記憶は私にとって「阪神淡路大震災」までは一番怖い記憶になっています。