あしや温故知新 VOL106 第二室戸台風 昭和36

 

 第二室戸台風は、1961年(昭和36年)916、室戸岬に上陸し、大阪湾岸に大きな被害を出した巨大台風です。


 1934年に関西に大きな被害を出した室戸台風とよく似た経路を取ったため、気象庁によりこの名称が与えられていますし、現在も通称ですがこの台風の名前が使われています。


96、マーシャル諸島東部の北緯7度、東経173度付近で「弱い熱帯低気圧」として発生し、989時に台風第18号となった。


 台風となった時の中心気圧は990 hPaですから、小型の台風だと思っていました。

台風第18号は西進しながら次第に発達、9103時には北緯10度に到達、この時点で中心気圧935 hPaに巨大化し発達しています。


912にはアメリカ海軍による飛行機観測では中心気圧888hPaが観測され、同じく最大風速を100mと測定した記録が残っています。


 一方、日本の気象庁の発表では75mとなって、風速25m以上の暴風域は半径370kmという超巨大な台風になっていました。


 台風は次第に進路を北寄りを進み、914日から15にかけ 沖縄の近海で方向を変え、北北東から北東に進んでいます。


 この時も中心気圧は900920 hPaの非常に強い勢力を維持したままだった。


 なお、この台風はアメリカ海軍がスーパータイフーンと警告を発した。


 914日頃には、台風は九州方面に向かうと予想されたが、915には奄美大島を通過、四国から本州に達する事が確実となった。


 伊勢湾台風級の超大型台風の襲来として国内では厳戒態勢に入り、大阪管区気象台・大阪府・大阪市などでは災害対策を整え、NHK大阪局などの報道機関も連携して最大級の警戒を呼びかけた。


916日(土曜日)、台風は加速しながら北東に進み、9過ぎには室戸岬西方に上陸。

上陸時の中心気圧925 hPa、室戸岬測候所での気圧や風の観測値は記録的な数字となった。


そして、その後も勢力はほとんど衰えずに、さらに加速しながら13過ぎに兵庫県尼崎市と西宮市の間に再上陸しています。つまり、芦屋の直近だったのです。

 

私は3歳です。


 記憶はほとんどありませんが、家は床上浸水し海岸にあった漁船や浜の工場は次々と倒れた。急に海面が上昇し、沿岸部にあった叔父たちの家も海水に呑み込まれたのです。

 

堤防は芦屋の伊勢町付近で倒壊し堀切川決壊、宮川や大溝川はたちまち溢れてしまった。


 現在の臨港線にある堤防よりさらに1m以上低い堤防でした。つまるところ、現在の堤防は第二室戸台風後に造られたものなのです。


 高波は暴風と共に海面の浮遊物をまき散らしています。木片、金属片、瓦ら、看板も含めなどが暴風で飛散し、怪我人も多く出ています。


 黒いものが空を飛んでいくのを目撃した人も多い。この経験からも台風の多い関西の瓦屋根はすべて台風対策のため瓦を土で固め、屋根自体が飛ばないようしてあります。


(これが後の阪神淡路大震災で、家の中が土で人が埋まったことにつながってしまう結果になりました。)

 

 停電した家は蝋燭で明かりを取ったのですが、真っ暗の中に手漕ぎのボートで救助されるように道路は海水と雨水で町が水没したような当時の写真を見ると母たちはその時の恐怖をこう言います。


「伊勢湾台風でも室戸台風でもない。阪神間で一番恐ろしいのはこの第二室戸台風だった。」


 被災者は自ら泥まみれの家財道具を水洗いし、片付けを始めた。


 現在のようにボランティアも仮設住宅もありません。被災者への補償は税金の減免のみです。しかし、それが普通であると考えていた時代です。行政任せでは自然に立ち向かうことは不可能だという教訓は残ったようです。

 

 写真の芦屋浜は1ケ月後、この場所が崩壊してしまったのです。