あしや温故知新VOL103 打出だんじり物語その2

 

 その中で、こんな物語が紹介されています。


 昭和3年、春

「なんや、三条村が新しいだんじりを中島畳店から買いよったみたいやでぇ」

「ほう、そうか。これで芦屋でだんじりがないのは、打出だけになってしもうたなぁ」

20年前あんなばかなことせぇへんかったら、4台もだんじりがあったんやから、今頃、みんなでだんじり曳けとったのになぁ。ほんま情けない話やでぇ」

「まあ、今さらそれを何べん言うたかて、かいない話や。それより、新しいだんじりを買うてもらうか、造ってもかさへんことには、今の時世、打出メンツが立たへんでぇ」

「そりゃ、そうや」


 打出の重鎮、南野辰之助さん。通称「南辰さん」の家では、消防の訓練を終えた若者たちが、近くの池で捕ってきた魚をつまみにして、だんじり談義に花を咲かしています。

若者たちがしていた話しというのは、実はこういうことだったのです。


 打出のだんじりの歴史は古く、旧打出村は小社名、寺の町(春日)阪神打出から東まで旧浜街道以北)、東の町阪神打出駅から東で旧浜街道以南(南宮)西の町阪神打出から西で打出一番通りまで【若宮】西蔵町一番通りから西で芦屋村境界まで(西蔵)、4つのだんじりがありました。


しかし、大正の初め、一人の若者が酔った勢いで、巡査を池に放り込んでしまったのです。それに対して警察も厳しい態度を見せ、村の世話人たちも、「そんなことをするんやったら、だんじりを曳くことは今後一切あいならん。だんじりを売ってしまえ」ということで、4台あっただんじり全てが売られてしまったのです。


この事件があってから「いきなり売られた」というのではなく、だんじりがもとでのけんかやもめごとが絶えなかったという理由もあったようです。


また、4つあった打出村のだんじりは、それぞれ町にあった社のすべてを打出天神社へ合祀ために、だんじりが地域に1基で十分だったのです。

 

大工は、本場岸和田で頭角を現していた植山宗一郎(現植山工務店先代社長)に依頼しています。男性的な見栄えのする豪快な作品のだんじりを得意としていました、

彫師は淡路出身で岸和田の出身だった黒田正勝の門下生で木下舜次郎です。


 だんじり作りに生涯をかけた「銭もいらなきゃ、名もいらぬ、酒さえ呑めればそれでいい」当時に舜次郎は22歳、そのノミの冴えわたる作品は、淡路島美木彫家、木下舜次郎は打出のだんじりえを契機として、その名を広く天下に知らしめ、代表作品のひとつです。

 

「舜刀」と刻まれる銘は今もなお、名工の技として多くの人に淡路彫を幕は当時から名声のあった、淡路の梶内近一縫師に依頼しました、これだけの3人はそれぞれが第一線にいたからこそ、最高の技術で完成させたのが打出のだんじりなのです。


その歴史の中にはひとつ大切なものがあります。宮付きのだんじりです。打出天神社の神様をだんじりに乗せて氏子の地域を曳き、「五穀豊穣」の収穫祭的な要素が強い秋の例大祭が1017日です、打出は芦屋まつりに参加してはいますが、それは1017日前の日程に限っています。


 20年ほど前に、1019日に芦屋まつりでだんじりの練り回しをしようと企画されましたが、打出は参加できないとまつり協議会に申し出ました。


秋の例大祭をの後の日程ではまつり自体ができない伝統と歴史があるからです。


打出のだんじりは地域が所有しているものではなく、打出天神社と直結しているのです


つづく