あしや温故知新vol.99 文豪谷崎潤一郎と芦屋市 その3最終回

 

「細雪」(ささめゆき)は、谷崎潤一郎の「芦屋市」を舞台にした長編小説で最後に取り上げます。

 

 1936年(昭和11年)秋から1941年(昭和16年)春までの大阪の旧家を舞台に、蒔岡家の4姉妹の日常生活を綴った作品です。奥さんの松子の姉妹がモデルということは有名な話です。


 阪神間モダニズム時代の阪神間の生活文化を描いた作品としても知られ、全編の会話が船場言葉で書かれています。

 

 神戸弁の地域である芦屋市とはちょっと違うようにも思えますが、昭和13年の阪神大水害も描かれ、本文中ではこの描写が実に迫力がある文章となっています。


 628から降り出した雨が75には豪雨となり、芦屋川・宮川が増水し、各地で山津波が起こります。


「その日は、四女妙子は阪神国道のバス停津知から本山野紀寄の洋裁学校へ雨をついて出かけていました。小学生の悦子もお手伝いのお春さんに送ってもらって学校(精道小学校)へ行きました。そしてこの水害にあったのです」

 

 実は谷崎潤一郎が芦屋を小説の舞台として登場させたのは、昭和2年(1927年)に文芸春秋という雑誌の新年号に「日本におけるクリップン事件」という探偵小説でした。

この小説はある意味、とんでもない話に飛躍しました。

 

 これが有名な芥川龍之介VS谷崎潤一郎のバトルです。


 論争のそもそもの発端は、1927年(昭和2年)2月に催された『新潮』座談会における芥川の発言でした。

 この座談会で、芥川は谷崎の作品「日本に於けるクリップン事件」その他を批評して「話の筋というものが芸術的なものかどうか、非常に疑問だ」、「筋の面白さが作品そのものの芸術的価値を強めるということはない」などの発言をします。

 

 するとこれを読んだ谷崎が猛反論、当時『改造』という誌上に連載していた「饒舌録」の第二回(3月号)に「筋の面白さを除外するのは、小説という形式がもつ特権を捨ててしまふことである」と斬り返した。


 これを受け、芥川は同じ『改造』4月号に(同誌の記者の薦めもあったと思われる)「文芸的な、余りに文芸的な——併せて谷崎潤一郎君に答ふ」の題で谷崎への再反論を掲げるとともに、自身の文学・芸術論を展開したのです。

 

 互いに一歩も引かず論を戦わせた芥川と谷崎ですが、特別に悪かったわけではなく、仲が良かったようです。


 2人は東大系の同人誌「新思潮」の先輩・後輩であり、この論争の最中にも谷崎夫妻・佐藤春夫夫妻・芥川の5人で芝居に出かけたりしているのです。


 ともかく、昭和台頭の文豪2人の激突は芥川の自殺で決着はついていません。

 

 細雪は谷崎潤一郎の代表作であり、三島由紀夫をはじめ、多くの作家たちにより文芸評論・随想等で数多く、高く評価され、読書アンケートや名著選でも必ず近代文学の代表作に挙げられている作品なのです。

 小説「細雪」は昭和天皇に献上されたが、通常は小説を読まない天皇陛下が、この作品は全部読了したと谷崎は聞いたという


 こうして、谷崎潤一郎作品は名実共に不動の地位を得ました。


 芦屋市には谷崎潤一郎記念館があり、今まさに谷崎文学を語る記念展が開催されています。


 END