あしや温故知新VOL92 東川用水路と芦屋城??
1999年3月に芦屋廃寺遺跡・寺田遺跡震災復興埋蔵文化財確認調査報告書が発刊された。
その中に東川用水が記載されています。
戦国時代末期の天正年間を遡ると「芦屋川水日数定」(猿丸吉左ェ門文書・天正17年5月17日)が最も古い資料になります。
その内容は芦屋村(芦屋・打出)と神戸本庄五か村(三条村・津知村・森村・深江村・中野村)が話合いで水利利用を決めたということなのですが、変遷が凄い。三条村に既得権のような取り決めに不満と批判があって、本庄五か村は三条が有利になっているとか、三条村と他の4か村が揉めました。
このように現在神戸東灘区と芦屋市が合併できかなった理由は過去に遡る当然だったのかもしれないと思います。(あしや温故知新VOL39芦屋VS神戸を参照ください)
当初あまり関与していなかった打出村の勢力が増大してこの話が更に複雑化してしまったが、寛政12年(1800年)に一応の決着を見ました。
さて、この東川用水路は近世の流路を想定すると遺構の実態が少し違うようで、考古学者たちも推定するしかありません。
特に開森橋以北の現行芦屋川両岸は近代になって護岸工事が進んだために取水口を明確に示す遺構が残っていない点があり、明確に残っているのは山芦屋町159番地付近からです。
これまでの研究から、おそらく開森橋の北700mに所在する角石堰堤付近だとしています。
東川用水路の具体的ルートの復元研究が行われていることが少なく、導線の設定にはかなり無理があったようです。
今回の調査によって大半が明らかになったのです。
六甲山系から流れ出る中小の河川は利用する地域が複数村がありますが、芦屋川流域は違っています。
芦屋川は芦屋庄二か村(芦屋・打出)の二村が入会山をもっている。
利用する三条村が唯一高座川の西側と会下山東斜面の入会山を持っています。
しかし、不思議なことに高座川の水はまったく手をつけていないのです。
芦屋川と高座川の間に標高250mの城山山頂にある鷹尾城の存在がこの謎を解くカギになっています。築城は永正8年(1511年)で、「瓦林政頼紀」によると山頂の鷹尾城と合わせて外壕を持つ芦屋城と呼ばれる山麓の城があったという記載があります。
「鷹尾城二外堀ヲホレハ、用水ヲハ樋二テカクヘシト政頼処二、本城(本庄)衆ウケコワス」山麓の城の外濠として利用するため、南方へ流れていた旧東川を南東へ流した。
おそらく、この強引な工事に本庄衆が反発して鷹尾山を攻めたというものだろうということだったようです。
これはどこの地域でも存在する歴史でもあるのですが、有効利用しなかった水があったり、それは鷹尾城が原因だったのではないか?
そんな歴史的に解明されていないものが芦屋市には存在しています。
今回取り上げた東川用水路は地域間紛争になり、それが長く続いたのです。遺跡を発掘してそのことが明らかになった部分もありました。
昔から水による戦が絶えませんでした。(あしや温故知新 VOL35)で1828~1880年、明治13年に芦屋村の当時の村長であった猿丸又左衛門安時(さるまるまたさえもんやすとき)
が水不足を解消するために灌漑工事を行って「奥池」を約20年かけて完成させました。
その発端は東川用水路だったのです。
今回vol92にしました。vol83が重複していまし
た。