あしや温故知新VOL90水産業と海水浴場

その2


 私の父が幼いころからヨットに乗れたのはこの貸しボート屋には木製ボート数隻と小型ヨットが存在していたからなのです。


 仁楽園の研究者・和田秀寿さんはこう当時を解説しています。

 大阪毎日新聞に、北の芦屋の打出、南の浜寺を大きく紹介する連載記事が掲載されました。


 事前の宣伝効果もあったようですが、アトラクションは爆発的な人気で、無料休憩所には500人を超える客で溢れ、オープニングでは、4寸玉100発の花火・大阪師団軍楽隊演奏・水泳大会が中心で明治時代の娯楽を検証する材料にもなっています。


 打出駅から海水浴場までを舗装したり、阪神電車の増便などインフラの整備をやっています。


 外国人たちも多数やってきたようで、特に素人浄瑠璃や相撲大会。 競馬会は楕円形の柵を砂浜に立て、その内側を4頭立てで競われたと言います。80頭あまりの駿馬が遠く播州からやってきたのです。


 来場者の最も人気があったのは地元の漁師らによる地引網漁です。来場者には獲れた魚がプレゼントされました。しかし、カキの殻や築堤の崩れた石でけがをしたり、小魚に刺されたりするなどの不具合も重なり、打出海水浴場開設のわずか2年後には香櫨園浜にも遊園地が開設され、阪神電鉄は香櫨園駅を増設しました。

 

 そして大正13年(1924年)甲子園が完成し、翌大正14年には付属施設として甲子園浜海水浴場が最後に開設されましたが、戦時体制に入った昭和16年には閉鎖されていきました。

 

 打出海水浴場は芦屋海水浴場として昭和23年芦屋浜で市営海水浴場が開設されました。

芦屋の海岸は潮の干満の差があまりなく、白砂青松の遠浅で海水浴場に適した条件を備えていました。最盛期はひと夏で34万人の人出があったといわれてます。

小学校・中学校にはプーㇽが無い時代はすべてこの浜で行われる「水練学校」で子供たちは水泳を学びました。


  しかし、昭和30年代には海の水質悪化がかなり進み、昭和39年に惜しまれながらも閉鎖されました。

 当時の海水浴場はちょうど臨港線の直下になります。

 

 阪神間の住宅地の発展の礎になった打出海水浴場は時代の変遷と共に「芦屋っ子」の記憶に残しておきたいと思い取り上げました。

 

 白砂青松の芦屋浜は多くの市民に愛されて、平安時代から大切にされていました。


 残念ながら、当時の姿は写真でしか残っていません。


 しかし、潮芦屋ビーチが時代を超えて芦屋に誕生しています。


 昔の芦屋浜の面影や潮騒を今も感じる事が出来きるのです。


 芦屋で唯一自由な場所!

 それが芦屋浜でした。


 いつかこの浜も芦屋っ子たちの思い出の場所として、記憶され歴史が作られて行く、、、。