あしや温故知新VOL85 三条岡山遺跡と寺田遺跡
寺田遺跡は芦屋廃寺跡の南の芦屋市三条南町から西芦屋町に掛けての、東西450m・南北350m以上の広い範囲に及ぶ縄文時代後期から近世に至る複合大遺跡と言われています。
芦屋廃寺跡と三条九ノ坪遺跡、三条岡山遺跡などを含むこの辺り一帯は、どうも大昔の芦屋の中心地だったようなのです。
1981年三条岡山遺跡の発掘調査が行われ、その報告書の中で調査補助員として関西大学文学部考古学研究室から藤田和尊氏が参加していました。
2019年1月に他界した私の小学校からの高校まで一緒に過ごした同級生です。
彼は考古学者として武具の研究を行った第一人者です。また、この古墳を発掘調査した時は大学生だったのです。
またいずれ藤田和尊君の研究はご紹介します。
芦屋廃寺跡(あしや温故知新VOL74で紹介)からほんの200mほど南にあたる寺田遺跡としては、縄文時代後期から室町時代までの複合遺跡となります。
複合遺跡とは色んな年代層で出土され、この場所が長く利用されていた場所ということが解っています。
また、芦屋川のすぐ近くなので、幾度の水害に遭って埋まって建て直した跡が発見されています。
1999年11月3日文化の日、芦屋市教育委員会の“寺田遺跡”第117・118地点の発掘調査現地説明会が開かれました。
場所は芦屋市西芦屋町5の付近。阪急・芦屋川駅の南西300mほどの地点になります。
ここでは貴重な発見がありました。弥生時代の住居跡でここは火事で焼けた跡も存在していたのです。その焼け跡からほとんど完全な形の土器などが出土しています。住居跡近くに水路と思われる溝があり、この溝の中からたくさんの土器の破片が発見されています。
割れて使用不能となった土器をこの溝に捨てたのではないかと記録にはあります。
燃えないゴミは弥生時代から廃棄する場所があって、この遺跡では水路だったようなのです。
さらに、弥生時代後期の住居は4棟発見されたのですが、4棟全部が同時に建築されたものではなく、水害で住居が埋まってしまったあとに建てられたので、同時期に建設されたのは2棟程度でしかなかったのです。
この寺田遺跡では鎌倉時代の小さな皿や、“碧玉製管玉”(へきぎょくせいかんだま)が発見されています。
碧玉製管玉は古墳時代です。多くは豪族の墓から出土するものですが、室町時代の地層から出たというのです。
おそらくは持ち主がアンティーク好きで集めたのかも知れないですね。
芦屋には弥生時代の会下山遺跡があります。寺田遺跡のすぐ北西 700m になります。
会下山遺跡は山の中腹あたりにあります。寺田遺跡は平地に近い場所です。
お互いの集落の付き合いがあったのだろうか?
争いごとは無かったのだろうか?
そんな疑問も沸いてくるものです。
そのような想像は出てきますが・・・想像でしかないのです。
今回、出土した土器類や芦屋廃寺の瓦などが同様、土の成分からして、この近くでの土で作られたものだということが解っています。
ふと思うことは「この場所で誰が、どのような方法で」という素朴な疑問です。
遺跡の発掘調査報告書にはそのような答えを出すものではなくあくまでも記録です。
時には考古学の定説を返すように発見がありますが、その時代に思いをはせることでしかないのでしょう・・・・。
遺跡は芦屋市では多数存在していますので、続きはまたの機会に!!