あしや温故知新VOL84 西国街道と打出村 その2

 

 西国街道の役割は本街道の方は国道2号線が出来る前の昭和以前は、ある程度幹線道路としての役割があったかも知れませんが、2号線開通以降はすっかりマイナーな道路になってしまい歴史の中に消え去ろうとしていました。

 

 一方の浜街道は昭和になってからも旧国道としてバスが走ったりして、便利な道路として活用されたのです。

 

   芦屋の生活文化史(昭和53年発行)によると芦屋市街地の中で旧西国街道といわれる道路は打出春日町20番地付近から部分的に途切れながらも市街地を斜めに横ぎって茶屋之町2番地の北側まで残存している。春日町区画整理事業に伴って調査され昭和初期から戦後の姿を資料として残しています。


  打出春日町一帯を「寺垣内(テラカイチ)」西宮のニテコノ池(満池谷)までの葬列道と呼ばれていたことや西宮と打出のつながりを証明する資料となっています。


 西国街道沿いの打出は店が並び、うどん屋、米屋、塩屋、酒屋、植木屋、そうめん屋、海苔屋、八百屋、菓子屋、くし屋、豆腐屋、床屋、時計屋、魚屋、風呂屋などがありました。


 私が覚えている打出市場の前の姿です。

 この資料からは打出焼きの窯元の位置や旧西国街道の打出地域における役割や繁栄の姿を想像してみることが今でもできるのです。

「西国街道は生きている道であるとともに、かつて旅をする人々に、親しみと共感を呼び、日常生活に密接につながっていたこと。また、道標や石佛には栄姑盛衰に耐えてきた打出の人々の心が刻まれていることである」と報告されています。

この芦屋の生活文化史の作者たちはこの区画整理事業は町の姿を一変させる事業より、歴史文化を大切にして欲しいという願いが込められていると私には見えます。

 

 私があしや温故知新を連載している理由はまさにこれなのです。

 先人たちが芦屋を作り育てた誇りある歴史の古き良きものを否定するのはたやすいが、その伝統や歴史をしっかり検証した時に多くの疑問が解消されて行きます。

 それと同時に古き物は新しい物を生み出す力になっていることが理解されるでしょう。

 

 文化元年 長崎に向かった太田蜀山人(江戸後期の狂歌師・戯作家。江戸生。名は覃、字は子耜、通称は直次郎、別号に南畝・四方赤良・南極老人・杏花園等。狂歌・狂詩・狂文・洒落本・黄表紙・随筆等多才な人物です。特に狂歌は四方側の首領で、唐衣橘洲と共に中興の祖といわれる。文政6(1823)歿、75才)はその旅を「革命紀行」に書き残しています。

芦屋付近の様子を「川をかちわたりして、又小河を渡り田間をゆけば人家あり、打出村といふ、虚無僧本寺京都明勝寺留場という札たてり、左に社あり、右に石碑あり、すぐ兵庫県道大阪西宮道とあれり、鳥かひ川にかり橋あり、かちよりわたりて蘆屋村に入る、ここにおかしき招聘あり表具処嫁入道具ありとかけるさまひなびたり、村はづれに四辻あり、左右車道すぐ兵庫道あし屋の里とかける杭あり。蘆屋川をかちわたりゆけば、左に海ちかくみゆ、右に稲荷之社自是三町とえりし碑あり、・・・・」

 

 1804年文化元年の旅人のレポートから西国街道の打出村の様子が垣間見ることができます。