あしや温故知新VOL83 西国街道と打出村 その1

 

  京都から太宰府に通じる西国街道は、京都から今の西宮市の広田村から越水(小清水)村を経て芦屋市の打出村まで通じていた。打出村からは西に延びていました。

本道と浜街道がどこで分かれるのかおおよその推定は可能です。


  実は西国街道は打出村で山麓を通る本街道と海沿いの浜街道の2本になります。

打出で2本の道に分岐するのですが、1本は市街地を横切り、現在のJR芦屋駅南200mほど南で国道2号線に合流しています。これが本街道でかつては大名行列が通っていた西国山陽道なのです。


  芦屋には津知町には道端に一里塚があり、町名の由来になった茶屋之町には茶店があり、その名前が町名になったのです。

 

  そして、もう一本の道は打出からほぼ43号線沿いに浜辺を西進する浜街道がありました。

 

   いつ頃出来たのかを検証すると遅くとも安土桃山時代には、大坂-尼崎を経て海沿いに兵庫津(神戸)まで通じる道が出来ていたようです。きっちりと整備され、街道らしい姿になるのは尼崎城築城(元和4、1618年)以降だともいわれています。簡単に表現すると途切れていた道が、その利便性に応じて整備されたのだという識者も多いのですが、どの時代も利用者の利便性を考えていたのが道路だったのでしょう。


 その道は難波津から兵庫津までの全線を中国街道と呼んだり、西宮までは中国街道、それ以西は(西国街道の)浜街道とも呼んだりしていたようで正式名称とする根拠はそれほど多くありません。

街道の呼び名は利用目的や利便性などによって、地方によって異なっていても問題ないし、実在したという検証に留まる方が賢明だと考えます。

 

  明治時代の地図、明治1718(18841885)年測量の地図(芦屋市立美術博物館提供)を見れば、その浜街道は西宮市川西町1415の間、ちょうど堀切川の起点辺りで分岐していたようです。


  現在は阪神電車路線に阻まれ分岐点ははっきりしませんが、芦屋市春日町から西宮市弓場町に向かって真っ直ぐ延びる道を延長すると、ちょうどこの辺りで浜街道(旧国道)と交わるのでほぼ間違いないようです。


   明治時代の地図を見てもそうなっています。この当時、阪神電車はまだ走ってなかったから、本街道との接点を探すには苦労はありませんね。

 

  さて、国道43号線の工事が着工される昭和30年以前はこのまま浜街道、あるいは旧国道として神戸まで行けたといわれています。

 

 西国街道・本街道は参勤交代の大名行列が通るなど公の道として使われ、浜街道の方は庶民の生活道路として利用されました。これが私の結論なのですが、お上の整備した本街道があるのに、わざわざ浜街道もあったってことは、必要があってのことだろうから、当然、下々の浜街道の方が賑わっていたとされています。


  特に豊臣秀吉が堺の商人を大阪に移し、神戸が大阪の外港としてその地位を築いて以降、陸路の浜街道もなおさら賑わったのです。

 

  西国街道は正に流通の要でもありました。

芦屋市内には道しるべの道標が数多く残っています。


  そしてその傍には道祖神やお地蔵尊が今もひっそりと道行く人を見守っているようです。

この西国街道は芦屋の発展に大きく影響を与えた存在でした。


  是非、皆さんも一度芦屋市内の西国街道の名残りを探してみてください。