あしや温故知新VOL83 松風山荘が芦屋市の始まりだった。

 

  昭和311117日発行の「芦屋市史 本編」P235にはこう書かれています。


「明治38年阪神電車が開通を機として、阪神芦屋駅付近の芦屋川扇状地を中心に、これら実業家の邸宅が建ち始めた。ついで40年には大阪府立高等医学校校長、佐多愛彦氏が、その専門とする結核病学的立場により、芦屋の山手地帯を阪神間第一の健康地として自ら別荘を建て、松風山荘住宅地の基礎を開いた」

 

  このように芦屋を代表する昭和4年の開発が始まった「六麓荘」より遥か以前に芦屋市には松風山荘という住宅地の原形が存在していたのです。

 

この松風山荘は、小野高裕氏(新潟大学教授)・三宅正弘氏(武庫川女子大准教授)の基礎的な研究によって明らかになっています。

 

  昭和に入って、芦屋市は大きく都市開発の波がやってきました。

佐多愛彦博士の所有していた2万坪の土地を昭和3年(1928年)ころから日本住宅株式会社社長・阿部元太郎が開発・分譲しています。


 後に芦屋川の自然防潮堤上の「平田町」や「六麓荘町」とともに高級住宅都市芦屋の名声を高めることになったのです。

 

  一方で昭和9921日に深江に上陸した室戸台風の高潮で、大阪・尼崎・西宮その他の大阪湾岸臨海地帯に大きな被害をもたらし、高潮のない山手地域に転居する人が相次ぎ、市政施行した昭和15年には市の人口は精道村時代の約1341,925人に膨れ上がった。

 

   芦屋にも同じように温泉が湧出したのです。東芦屋から芦屋神社への参道の近くに泉源が発見されたのですよ。芦屋温泉とよばれ、泉質は有馬の湯と同じような泉質で、木造平屋建ての料理旅館が営業していたようです。明治40年頃には浴場があり、その北側の桟敷では海の眺望を楽しみながらお弁当を食べることができたと伝えられています

  

  一方、山手緑地内にある旧藤井邸「松風山荘」は和洋折衷で、明治の建築家小川安一郎氏の設計ではないかと専門家は推察しています。

 

  松風山荘旧藤井邸が微かにその名残を残していますが、現在は芦屋山手緑地で朽ち果てるのが時間の問題になっています。


  阪神淡路大震災によって、芦屋にあった洋館建築も次々と失われてしまいました。伊勢町にあった旧金川邸もそのひとつです。


   旧金川邸が解体される時に小野高裕氏を中心に集まった「芦屋文化復興会議」のメンバー

の想いは、いつかは再建しようと部材を保管しました。再建するための正確な図面やスケッチを神戸大学建築科の協力を得て行ったものです。


  金川邸の多数の部材は、山手緑地内にある旧藤井邸の蔵に多数丁寧に梱包され保管されています。

 

  塔の部分以外は解体されフェンス囲いをされていますが、外側からも老朽化が激しく、朽ち果てるのを待つのみのような状態になり、今はこの値打ちを知る人も少なくなりました。議会で何度か保存して欲しいと提案しましたが断られています。

 

  私がこの「あしや温故知新」を書き残しているのは、これら近代史が軽んじられ芦屋がどうやって発展していったのか、その疑問に答えてくれる記録が少なくなってきたからなのです。

 

 旧藤井邸がかすかに残っています。