あしや温故知新VOL82 あしやのスーパーレディ


   廣瀬勝代 1895年(明治28年生まれ)215日大阪出身。明治43年(1910)明治19年に設立された大阪府立梅田高等女学校を卒業。昭和時代後期の女性運動家としてその名を芦屋市に残しておられます。


   今日はこの廣瀬勝代さんを取り上げたいと思います。


   婦人会会長の廣瀬忠子さんのお母様です。今日の記録は廣瀬忠子さんのインタビュー記事や私が直接お聞きしたお話をまとめたものです。


  廣瀬勝代さんの主な活動として昭和20年、芦屋市婦人会会長として芦屋から兵庫県へ、21年から35年間兵庫県連合婦人会会長を務めておられました。


  この間,県選挙管理委員,日赤常任理事,日中友好婦人連盟会長。温故流家元として日本いけばな芸術協会理事も歴任されています。


   現在の芦屋市婦人会の廣瀬忠子会長によると、芦屋市にあった崇信(すうしん)幼稚園に戦後、父親を戦争で亡くした男児がいました。家で父の話ができず、「お父さんのことを聞きたい」と漏らしていたそうです。


  明石市の幼稚園にも同様の園児がいたということから、その話を聞いた廣瀬会長の母で当時の市婦人会長の勝代さんが、1953年に東京の婦人会の全国大会で呼びかけた。


「父を戦争で亡くした子どものため、父の話をする日をつくろう」。これが日本の父の日のきっかけになったという。

 

  また、戦地から下関で全国に復員兵が帰ってきました。下関から電車で帰るのですが、ある日、芦屋の駅で40分間停車すると聞いた廣瀬勝代さんは、「兵隊さんにお茶を出そう!」と婦人部のみなさんに声をかけ、それぞれ一握りのお茶の葉と、ガスなんてありませんから マキを1本ずつ持ち寄り日本茶をつくり、復員兵の皆さんにおもてなしをしたそうです。


 「下関からずーと電車に乗ってきたけれど、ここで初めてお茶をいただいた。どこの駅でもお茶なんて出してくれなかった。ここが初めてだ。」

と大変喜んでくださったんです。


  この話を新聞社が記事にし、話題になった。その記事を読んだ米軍が今度は勝代さんを連行した。 「戦犯にお茶を飲ませるなんて!」

しかし、廣瀬さんはアメリカ兵にこう言ったそうです。


「あなた方の国のことは知らないけれど、私たちの日本では戦争をして疲れて帰ってきた兵隊さんにお疲れ様でしたと、お茶を出す文化があるんです。あなた方がアメリカの自宅に帰ったらあなた方のお母様も同じことをするのではないですか」と啖呵を切って帰ってこられたそうです。


   他にも、日本兵がアメリカ兵の捕虜を虐待したと聞いた勝代さんは、進駐軍幹部の方々を自宅に招いて日本料理を披露されたそうです。すると米兵将校は「この美味しい物はなんですか?」と尋ねたそうです。


  廣瀬さんは「これはゴボウ汁というものです」

捕虜虐待としてニュースになった「木の根っこ」を食べさせたというものです。それが当時では高級なゴボウだった。


捕虜虐待などではない。「ちゃんとした日本料理です」と廣瀬さんは主張したかったのです。


私はこの話を直接、お嬢さんである廣瀬忠子さんから聞いた時、

「白洲次郎さんがもう一人芦屋におられた」と感動したことを今でもはっきり覚えています。

 

1984年(昭和59年)33日死去。享年89

 私は芦屋には「白洲次郎さん」「廣瀬勝代さん」が米国にはっきり「日本」を主張した人として挙げたいと私はこのお話を投稿させていただきました。

他にもたくさんの逸話が残っています。ありがとう 廣瀬勝代さん。


  そのお話をちゃんと後世に語り継いでくださる廣瀬忠子さんにも感謝を申し上げます。