あしや温故知新VOL79
「宮川小学校が炎上!大火災からの復興 その5」
あの大火災からの復活で宮川小学校では私たちはやれることは全てやり切った!
このお陰と言うわけではないが、1970年万国博覧会が開催された時に「世界のおまわりさん」という万博協会主催の事業の受け皿が芦屋市になった。
市内に当時4校あった小学校の中から、私たちの宮川小学校が選ばれた。
学校への災害特例でもないでしょうが、選抜された理由は記録もなく、その理由は不明のままです。
そして、いよいよ宮川小学校に各国のおまわりさんがやってきた。
スイスやスウェーデンやタイなど学校にたくさんの外国のおまわりさんやマスコミの記者さんたちがやってきたものだから、街中は一大イベントに湧きあがったものです。
教室の飾り付け、慣れない英語を書いてくれた女の子チーム、ベレー帽に蝶ネクタイ、お揃いの白シャツに紺ズボンとスカートも新調された。ちなみに学校には制服はありません。
このイベントのために学校は「てんやわんや」の大騒ぎで準備をしたものです。
鼓笛隊を編成し、彼等の到着したチャーターバスから学校までパレードを行ったのですが、沿道には大勢の市民が集まっていました。
学校ではお世辞にも万博のセレモニーとはいえません。私たちの手作りの歓迎式典を校庭で行ったのが外国のおまわりさんたちには一番印象的だったらしい。
私たちの側で印象深いのはスイスのおまわりさんのスイスホルンの演奏と「ボウ―ガン」の試射です。スイスのおまわりさんは拳銃ではなく、ボウ―ガンで犯人逮捕するんだろうかと質問した人もいました。
式典が終わると教室で歓迎会を各クラス別でやりました。「何組はどこの国です」とクラス別担当ですから、卒業生はそれぞれ違う思い出になります。
そして、最大の楽しみは万博会場に行って、ステージイベントにも参加させてもらうことでした。当日の万博会場は小雨模様で少し寒かった。おまわりさんらと再会して、ステージイベントが終了すると一部のパビリオンを見学させてもらうのですが、、、「フジパンロボット館」「富士ゼロックス館」だった。
空いていたのと万博野外ステージに近かったと聞きましたが、みんなが行きたかったのは間違いなく「月の石」のアメリカ館だったはずです。
「この世界のおまわりさん」は私たちの学年の卒業生に聞けば誰でも覚えていると思います。
この時代、万博は私たちの最大関心事です。
その企画が学校に来るだけでも当時の私たちは「大火事」の事から離れることができました。
楽しいこと、辛いことが共存していた。私たちは両方が波のように押し寄せては引いていくような時代を過ごすことになりましたが、きっと今は懐かしい思い出になっているはずです。
消えることのない記憶として・・・・少しずつ進んでいきました。
次週につづく
この宮川小学校が炎上〜は全6話を予定しています!
次週最終話です。