あしや温故知新VOL78

「宮川小学校が炎上!大火災からの復興 その4

 

  あくる日はみんなで片付けをした。先生方が焼けた物の中から使えそうなものを取りだしてくれた。

   半数以上の先生たちは泣いておられました。意外に同級生たちは覚えていないらしいが、私の記憶は鮮明に残っています。


   それは、「私たちは明日からどこで勉強するのか」職員室では先生たちが教育委員会の人たちにめちゃくちゃ文句言っていたのを聞いてしまったし、先生たちは私たちと一緒で学校が大好きだった。


 片付けをしながら、「戦争の後の焼け跡ってこんなんだったろうか」という友人もいた。

「学用品足らないから、みんなの分けてもらえるな?」

「俺達は5年生だからいいけど、妹たちの低学年は辛いだろうな」などの会話になっていった。


   焼け跡に残った展覧会の絵の無残な姿を見て、泣いている子もいた。

焼け跡の匂いも凄まじくて、小さい子は息苦しいだろう。頭も痛くなる・・・・。

図工の道具を見つけては

「これ使えるか?」

「あかんわ。中は燃えカスだけやし・・・・」


   とにかく、呆然と・・・そして淡々とかたづけの日々だった。

「みんなぁくよくよくしてんなぁ~。授業なかったら遊んだらええやん」

のんきな意見の友人もいたが、ちょっとほっとしたのも事実です。


   少しづつですが、その火事の中から子ども心に「なんとかしなくてはいけない」と自立した考え方になったと思います。 

 

あの大火災は、私たちに色んなことを教えてくれた・・・これが全てでした。

 

 先生や親たちは宮小大火災からしばらくすると「これからどうするんだ」という話題がすべてになって行きました。


   実際、仮設校舎ができるまでの間に体育館を間仕切りして臨時教室にする案がまとまっていたらしいのですが、「私たちより先に小さい子から寒さを凌げる場所に入れてあげて欲しい」と提案したのは私たちの学年だった。


   それが今でも担任のN先生の誇りになっているそうです。

   6年生は卒業だし、おそらくこの難局を乗り切る役目は私たちの学年がやらなくてはという気持ちが備わってきたのでしょう。

 

  確かにこの後、学校復興という名目で数多くの問題を自らの手で、解決しなくてはならない経験をすることになったのです。

 

   それは、全国の小学校から支援物資が届きだした時から始まった。


   物資を置くスペースが無い!(阪神淡路大震災でも同じような経験をしています)

   新聞社の私たちへの取材で「学用品がない」と記事にしてくれたからですが、私たちの学年はしばらく教室が無かった、あるにはあったが、プール前にあった藤棚の下だったのです。雨が降ったら廊下に移動したりもしました。


近所のおじいちゃんが「おう、懐かしいねぇ。青空教室っていうんだよ」

 寒くてとても1日は無理なのが判明して中止になったのですが、それでも他のクラスと交代でこの青空教室を使っていた。机も椅子もシェアリングして見事な連携なのです。私は結構これが気にいっていました。


1に体力 2に気力 3に勉強 はじめて強し!」という宮川小学校の学校訓が際立ったのはこのころであったと思います。当時の牧野校長が提唱したのもこの大火災の後でした。

  そしてこの学校訓は現在でも継承されています。

 

  さて、届いた支援物資は新潟や広島や高知などの小学校からで寄付の申し出もがあった。机、椅子の他、絵具やノート、鉛筆なども大量に届いてきた。

 

  これを仕分けして、分配してお礼状は私たちの児童会主導で書いて発送していた。

 

   あまりにも大量に届いたので、残ったものは私たちよりさらに困っている学校や海外の小学校に回してあげたらってことに話が発展して、タイや東南アジアの国に送った。


次週につづく

この宮川小学校が炎上〜は全6話を予定しています!