あしや温故知新VOL77

「宮川小学校が炎上!大火災からの復興 その3

 

 火事の恐怖と学校が無くなることの寂しさからであったのでしょう。

私たち上級生たちが「大丈夫や」と小さい子たちを慰めていた姿を今でも私は覚えています。

 

 私たちが校庭で教室が燃えて無くなる状況に不安になっていた頃です。


 消防隊はある難しく危険な作戦に出ていました。


   消防隊は校舎の中央から西側の防火壁を見逃さなかった。現在のような立派なものではなく、あるのかないのかも判別できないような粗末な扉だったそうだが、

「よし、ここで火を食い止められるぞ」

「後は全隊員で集中放水!ここで止めないと全焼するからな。絶対にやりきれ!」と父が指令を出し、この防火壁を閉め、窓ガラスが割れるほどの熱風に包まれた燃える東校舎に飛びこんで一斉放水をしていた。

 

   これは、当時の新聞に「防火壁役立つ、消防士 機敏な判断」と後に消防防火、防御の事例研究されるものになった。


 一方、そんな生死をかけた消火活動をしているとは知らない私たちは、救援に駆け付けた近所の人や保護者に連れられて帰宅することになって、少しづつ友人は減っていきました。


   それでも帰っても両親が不在である友人もいたし、この成り行きを絶対に見ておくという友人もいました。


 救援活動と言えば、火災が発生して20分もしない内に西蔵町にある海技大学の学生さんたちが全員で校舎の中の机や椅子、学用品などを2階や1階から運び出してくれました。


   もちろん火が回っている教室以外ですが、それでもその手際の良さは「さすが、船員さん」救助活動の訓練もされていたようです。

海技大学生!彼らのお陰で机や椅子は学校再開におおいに役立った。

 

 荒っぽいですが緊急事態です。

 2階から、放り投げると壊れる机や椅子もありますが、焼かれればすべて無くなるものです。これらの行為を「緊急避難」というらしい。


「臨機応変」「果断速攻」つまりは決断したら緊急事態の場合は直ぐに実行するべきだという意味です。


 海技大学の学生の活躍も後に「緊急時の総合扶助」の模範として語り継がれています。

 一方、ちょっと悲しかったのは、上空のヘリコプターだった。


   私たちはあれだけの火事だから、「ヘリコプターが消火に来た!」と拍手や歓声を上げた。

「頼んだぞ!早く消してくれ~」しかし、そのヘリは消火ヘリではなく、新聞社やTV局の取材ヘリだった。


 この火事の後に児童に作文を募ったのですが、この「取材ヘリは見物だけをして何もしなかったのが悔しかった」というのが一番多かったように思います。


   消火作業のヘリコプターは家屋火災ではなく、林野火災のものであったと知るのは随分と後のことで、子ども達は反感を持ったままになった。

 

   午後3前になって、火は鎮火したようだった。

 真っ黒な耐火服の消防隊員が車両に引き上げてきた。共に健闘を讃えあっていたようでした。肩を叩いたり、握手をしたり、床に座り込む隊員もたくさんいました。


   そして皆、水をすごい勢いで呑んでいました。同僚に支えられている隊員もいた。


   その中で父は「撤収!」と号令をかけていた。父のヘルメットはボロボロになっていましたし、服は異様な匂いに包まれていた。


 「すまんな。かなり焼けてしまった」と私に声をかけてくれた。

  涙を堪えるのが一苦労で何も言えなかった。

 

   帰る消防車両にはみんなで「ありがとう!」と言って大きく手を振ったら消防隊員たちは私たちに「敬礼」をしていた。

 

   宮川小学校の長い一日はまだ続くのですが、私たちは三々五々に帰宅しました。


  その夜、学校から連絡があって、「学校に集合」となったが、低学年はお休みだったようです。


 次週につづく

この宮川小学校が炎上〜は全6話を予定しています!