あしや温故知新VOL75

「宮川小学校が炎上!大火災からの復興 その1」

 

  音楽会が終わって・・・あくる日、運命の時

私が小学校5年生の時だった。


   今から50年前の昭和441124日、前日23日に開催された音楽会の代休日だった。午後150ごろ(牧野博校長 児童1,500人)芦屋市立宮川小学校中校舎付近から出火、強い東風にあおられ、木造2階建て校舎24教室のうち20教室、給食室、宿直室と東側の高橋文具店の一部を焼いた。

 

焼失面積は1,723㎡(2750㎡)全校舎の62%を失った。

 芦屋市内ではこの規模の火事は少なく、まさに大火であったし、その代償は大きかった。

 

  音楽会が終わって、あくる日、朝、目が覚めると友達と宮川小学校校庭で野球をすることになっていたが、寒いし東からの風が強くて少し行くのを躊躇していた。


でも約束した限りはメンバーの数の問題があろうと結構厚着をして校庭に向かいました。

前日に演奏した「ドナウ川のさざなみ」を、口ずさむほど音楽会の余韻が残ったまま、校庭で友人たちと休日の野球をやっていたのです。


 野球のゲームを始めてすぐに、校庭に校務員の田村さんが突然「火事だ!逃げなさい!」と大きな声で私たちに向かって走ってきた。私たちは何が起こっているのか解らず茫然としていました。

 

  休日に校庭で野球をするのがいけなかったのか?小学生の私たちは寧ろ野球をやっていることに校務員さんが怒っているのかと一瞬思ったのです。


 すると、友人の一人が「火事や!」

「あれは給食室だ!燃えている」と口ぐちに言いだした。私も炎と煙が立ち上がり出したのを見た。


 校務員さんは「危ないから近くに来るんじゃない。校庭から出てなさい」と言って、勇敢にも校舎の中へ消えていった。


 校長室では、前日の音楽会の反省会をPTA役員らとやっていたようで、校長先生も保護者の方々も校庭に避難していた。


   先生方は「誰がいないか~火事だ。早く逃げなさい」と怒鳴り声にも聞こえるぐらいの大声を出して、走りまわっていた。火災報知機のベルのけたたましい音が鳴り響いていた。


 その後、消防車両がサイレンと金の音を鳴らして校庭や裏側の北校舎付近にやってきた。消防隊の第1陣が5分もしない内に出動してきたのだ。到着して直ぐに、放水が始まった。


 ところが、木造で老朽化した校舎の廊下は油引きが音楽会に合わせて行われていたため、火は廊下を走り、木造校舎は熱の塊のようになってしまった。さらに当時の暖房はストーブであったため、校内には灯油缶が備蓄されていたし、給食室にはプロパンボンベもあった。これが熱気で爆発し、上空に飛んだのを目撃した。


 すぐに消防隊が到着した。

 私の父は芦屋市消防署の職員で、バリバリの現役消防士だった。

 

  しかし、この消防士の家庭は普通ではない。

台風の時などは父はいつも家にいないし、一般の家庭の父親なら家を守るために扉や窓に板を打ち付けたりしている事態でも父は私に「男はお前だけだから家を守ってくれ」と言っては消防に非常出勤していた。


  床下浸水した時も私や母や姉と一匹のわんこを残したまま家に父は一度も帰っては来なかったのだ。そんな父の仕事は好きではなかったのです。


   私は消防車両に父の姿を発見した。すごく怖い顔をしていて、いつもの父とはまったく違う人間のようでした。


次週につづく

この宮川小学校が炎上〜は全6話を予定しています?