あしや温故知新VOL74  芦屋廃寺伝説と湯本の薬師

 

  白鳳期(7世紀後半)に建立された古代寺院です。文献による記録の存在がなく、寺院の名称は不明。伝説では芦屋廃寺はその昔、行基が開いたとか、在原業平が堂宇建立の伝説を持つ寺であるが、昔の戦乱のために焼け落ちてしまったので詳しいことがわからない寺でした。


   明治時代から採集されてきた古瓦と発掘調査の出土資料のみから古代寺院の存在が推測されてきました。


   旧摂津国菟原〔うはら〕郡芦屋村西ノ坊の地域(現芦屋市西山町一帯)に存在する古代寺院跡があります。

1907年(明治40)にすでに瓦の出土が知られています。1936年(昭和11)薬師堂跡が確認されていますが、本格的な発掘調査は1967年になって実施されました。


   その後、1979年までに都合30次におよぶ部分発掘が行なわれましたが、伽藍配置は明らかになっていません。

   法隆寺系の軒丸瓦が出土しており、創建は奈良時代前期にさかのぼるとされています。


「法隆寺伽藍縁起并流記資財帳」には菟原郡内に法隆寺領が存在したことが記されており、行基開創の伝承がありましたが、近年、鎌倉時代の再建が推定されており、そのころ以降の付会とみられる。(芦屋市教育員会生活文化史より)

 

  石碑の近くにロイヤル芦屋川というマンションがあります。建設前の発掘調査で重要な発見があったのです。


   当地では1999年に発掘調査が実施され、初めて古代の「基壇」と呼ばれる寺院建物の基礎部分が見つかりました。これまで古瓦のみから推測されてきた「幻の芦屋廃寺」がようやく実在していたことが解ったのです。


   その調査により、金堂や塔、講堂などが配置された芦屋廃寺の一端が明らかになりました。

 

  芦屋の生活文化史では「湯本の薬師」によると、芦屋廃寺の名前は、法恩寺(山号は塩通山)となっています。戦乱で焼けてしまったが、平和が蘇った時に村人により寺跡に小堂が建てられ薬師仏が祀られた。


   もともと有馬温泉は、熊野権現の神力で紀州の熊野灘に一筋の潮流がおこり、紀伊水道を通って大阪湾を横切り、芦屋の浦で地中にもぐって六甲の山をくぐり、地熱で温められたものが、山の裏で湧き出ていたという伝説がありました。


   炭酸水は海水が流入して温められたものでこの地下の水脈がちょうど芦屋の薬師堂の下を通っていると人々は信じていました。

   

   そのために、薬師堂を「湯本の薬師」と呼んでいたらしい。と解説されていた。

これが芦屋廃寺の伝説と紹介されています。しかも、このお堂の傍に塩湯と呼ぶ炭酸水が沸いていたようです。


   摂津名所図会(昔の観光案内のような文献)を見てみると、芦屋市あたりの絵には右端に猿丸大夫の墓があり、真ん中を通りこして左端に薬師とその左に若宮が存在しています。


   この絵図からもこの薬師が廃寺跡に建てられた薬師堂ではないかと言われているのです。

 

   芦屋廃寺の全容の位置がわかり、絵図が残っているのですから、確定できるものはないでしょうか。私はこの「湯本の薬師」が芦屋廃寺ではないかという説に答えがあると思います。