あしや温故知新 VOL 70   六麓荘町の国際ホテル その1

 

  六麓荘町という町名は「風光明媚な六甲山の麓の自然豊かな地に『東洋一の別荘地』建設を!」からつけられました。

元々、芦屋市は大阪財界人の別荘地として宅地開発されていました。


 六麓荘町の開発は、明治後半から大正時代にかけ「日本一の長者村」と呼ばれた住吉村(現・神戸市東灘区)や夙川、香櫨園など近隣地域の影響を受けています。


開発が始まったのは1928(昭和3)年。

森本喜太郎氏が発起人で豪商・内藤為三郎ら大阪財界人を中心とする人々の出資により、町を開発・管理するための「株式会社六麓荘」が設立されました。


   社長には内藤為三郎、専務に森本喜太郎が就任しました。この当時は、資金があまり準備できず、2人は協賛金や株の手付けなどの資金調達に専念したという記録が残っています。

国有林の払い下げ交渉は、法律を基に剛腕を発揮する取締役の瀬尾喜二郎が国との交渉にあたったとされています。


   その結果、土地は国有林の払い下げを受け、開発にあたってのモデルは、香港島の白人居住専用地区だと言われています。

 

  まだ海外渡航が一般的ではなく不便だった時代に、数度にわたり香港島へ渡航しています。そして英国人の町づくり、都市計画の手法を取り入れたのです。







  当初開発は197区画、数万坪にのぼる大規模な宅地造成を行ったことから始まりました。

さて、この住宅街に学校があります。この学校の創立の経緯は1936年(昭和11年)から1938年(昭和13年)に、六麓荘の開発構想には元々なかった「芦屋女子学園」が設立されています。


   この学園ができる以前には、スケート場や遊園地の他、テニスコート、運動場などのレジャー施設、あるいは、豪華な事務所や茶店が存在しています。


   特筆は交番と住民の交流の場となる六麓荘倶楽部(茶席残月亭)が設置されて、大阪のお茶屋式料理を出していました。

 

  また、苦楽園に住んでいた掘抜製帽社長・掘抜義太郎が「東洋一のホテルをここに建てる」という発想のもと、芦屋市街が一望できる場所に「芦屋国際ホテル」という7階建てのホテルを1939年(昭和14年)106に客室12部屋、収容人員18名で開業しました。


  宿泊客はほとんどが西洋人で、大阪・神戸の一流財界人も利用しました。料金は一泊300円。当時の平均的な宿泊料は15円から30円で、ホワイトカラー勤労者の月給が50円程度であったことからも、超一流ホテルと分かります。


国際ホテルのパンフレットには、「秀峰六甲山麓、名高い健康住宅地、天下の芦屋の頂角、六麓荘の山稜に、紺碧漂う茅の海を一眸に収めて、清澄の空気、高雅の環境、絶佳の眺望を誇る当国際ホテルは、省線芦屋駅よりバスにて15分間の意外なる近距離であります」と記載されています。

順調な経営が進んでいましたが、太平洋戦争が勃発してホテル営業が停止され、権利は松下電器産業(現 パナソニック)に移るとともに、松下電工(現 パナソニック電工)の研究施設として使用されました。