あしや温故知新VOL69  鷹尾城と芦屋河原の戦い その2


  前回から、、、

これが51日の話です。しかし、この時正頼は、本庄衆に対して高国の命に従わず討手に敵対した処罰として、鷹尾城の外堀を作らせ用水を樋でかけよと命じます。


  用水は田畑を耕すもので、これを取り上げられることに納得のいかなかった本庄衆は、56日に灘五郷衆の応援を得て2000名で攻め寄せた。


  この報は澄元の耳に入り、兵をあげることになります。

  戦火は拡大し、芦屋浜から山間部のこの山城を挟んでの戦いが船岡山合戦に繋がってしまう結果になってしまいます。

 

 私の専門外ですが、この合戦で出てくる鷹尾城とは鷹尾山城と芦屋城の平城から成り立っていたのではないかと考えられています。

 

   山城の基本は、山頂部に食料、武具を保管する建物を作り、山全体を要塞化し防御に優れている反面、居住には不便です。鷹尾山城もそれにならったものであったと思われていますが、山腹部に芦屋城を作り居城としていたと考えられています。

   これも当然な成り立ちです。

 

   鷹尾山城は幻ではなく実在した城です。


   鷹尾山城には、遺構がいくつかみうけられたのですが、実は、戦時中に高射砲の観測塔の塹壕が掘られてしまい曲輪が不明になってしまった上に、現在はハイキングコースにもなっており鷹尾山城と芦屋城の連絡通路も解っていない。

 

  また山頂付近やハイキングコースの所々に石垣が見受けられますが、これは高射砲の観測塔を支える土留めの石塁、または観測塔の建設資材運搬用の石垣で鷹尾山城とは関係がありません。


   芦屋城には建物跡があることから、鷹尾山城にも何らかの建造物があった可能性がある。この2つの城を機動的に使用し敵の侵入を防ごうとしたと思われています。永正8年(1511年)726の芦屋河原の合戦で「外城を攻め落とす・・・」という記録が残っており、この外城が山腹にあった芦屋城のことではなかったかと見られています。

 

いつか芦屋城が再建されるのも夢があっていいかもしれませんね。