あしや温故知新VOL65 岩ヶ平神社(岩園天神社)と八十塚古墳群(やそづか)

 

   芦屋のパワースポットと評判の岩ヶ平神社を今回取り上げます。

  御祭神は天照皇大神(アマテラスオオミカミ)天満宮菅原道真(スガワラノミチザネ)秋葉大神、金毘羅大神です。岩園天神社とも呼ばれ、ひっそりとその姿を天神の森に包まれています。

小さな神社ですが、実はこの神社にはとんでもない秘密が隠されています。


  それは、ここが古墳と併存している神社だからなのです。北側にある森の中に二基の横穴式石室が露出しています。

石が大きく積んであるので直ぐにその場所は解ります。

 

  古墳の変遷を紹介しておきますと、芦屋の地には古墳時代、前期段階から翠ヶ丘台地上にいくつかの有力古墳が築造されたことが解っています。前期(4世紀)に築造された古墳としては、以前にも紹介しましたが現在「阿保(あぼ)親王墓」として宮内庁管轄の阿保親王塚古墳があり、中期には5世紀後半段階の打出の金津山(かなつやま)古墳、5世紀後半~6世紀初頭の打出小槌古墳が造営されているのです。

 

 芦屋川右岸に立地し、渡来系氏族との関係が深いとされている城山・三条古墳群や八十塚(やそづか)古墳群など、横穴式石室を基本とし、割合と規模の大きい群集墳が次々と発見されています。しかし、現在は宅地開発のため破壊されてしまい、ごく一部の古墳が残るのみです。

 

   この岩園神社には円墳15mがうっそうとした森の中からその姿が見られるのです。

芦屋市教育委員会は、7世紀前半に築造された古墳から出土した「双龍環頭大刀(そうりゅうかんとうたち)」を市の有形文化財に指定しています。同様の形態の大刀は全国でもわずか約90例、兵庫県内でもたった2例しか見つかっておらず、市教委は古代芦屋の政治的位置付けなどを解明する重要な資料としています。

 

  大刀は201211月に「八十塚古墳群岩ケ平支群(しぐん)」(芦屋市六麓荘町)から出土。柄頭と刀身、さや金具など9片が、古墳内の横穴式石室から見つかったもので大刀は副葬時に解体されたとみられ、6世紀後半ごろのものと推定されています。

 

   最大の特徴は、青銅製の柄頭にある装飾だ。2匹の竜が向き合って中央の玉を取り合う姿が施されており、ヤマト政権から各地の有力者に配布されたとされる説が有力という。

 

  県内の発見例は香美町とたつの市のみ。いずれも大規模古墳で、八十塚古墳群のような群集墳で見つかる例は全国でも少ないといい、市教委は「群集墳を造った集団や被葬者解明の重要な手がかりになる」としている。


   一方、この岩ヶ平地域は尼崎藩の支配下になって以降(1665年前後)に岩ヶ平新田として再開発されています。おそらく岩園神社(岩ヶ平神社)ができたのはその新田開発の頃ではないかと識者は見解を示している。大正3年の「精道村土地利用図」では、かなり大きな集落に成長しています。

 岩園町や六麓荘町には打出の名が付いていません。しかし、江戸時代には打出村として年貢を納め、律令時代には旧打出村とその北の岩ヶ平一帯を 摂津国 菟原(うはら)郡 加美郷 と称している。つまりは、打出の管轄地とされたのは間違いないだろう。

 

近世以降は、「火の雨が降って遠い昔の人々がその雨を避けるために石室に住んでいた」という面白い伝承や狐が子どもを産み落としにやってくる、などの言い伝えもある。芦屋の生活文化史では、今日もなお機知に富んだ歴史を宿していると結論づけています。

 

閑静な場所で、地元の方々の手によって保存されています。

私が車椅子でこの場所を訪れるとちゃんと迂回する場所から直接の本殿前まで行けるように工夫されていました。

 手作りで、私はそのホスピタリティに感激しました。

岩ヶ平緑地を含め、芦屋市の管理であります。

ちょっと真剣に手を入れる方がいいと思います。

古墳と神社のパワースポットを体験する唯一の場所なのです。