あしや温故知新VOL61  国際文化住宅都市建設法 その1

 

 昭和26年に「国際文化住宅都市建設法」が国会で承認された・・・

  これは現在、芦屋市の代名詞になっています。

 

  しかし、この法律が国で認められるまでには色んな事実があったのです。

今回はその裏事情を紹介します。

 

   戦災都市指定を受けたものの、復興区画整理事業など都市計画だけでは画一的で将来芦屋市が高度な文化住宅都市として特色を出すのは困難でした。


  国からの特別支援が欲しかったのです。つまり芦屋市は国際文化住宅都市建設法による国の補助が必要だったのです。

 

  いかに壮大な理想を掲げても、それを実施するためには当時の市財政では到底不可能です。


  また、市民への負担を求めるばかりになっていると行政運営の信頼を失うことになります。

  これまで、精道村の時代も村民はことあるごとに寄付を行い、警察署などの誘致や学校建設などは住民主導または住民力のおかげで行政執行が果たせたということで明らかになっています。

  

  そこで「広島国際平和都市」「長崎国際文化都市」など特別建設法が次々と国会を通過するのを見て当時の猿丸市長はこの特別法の適応が国からの建設費補助により、文化都市に相応しい交通・産業・教育・文化施設を建設させる狙いがあったのです。

 

  昭和20年代の芦屋市は財政的には裕福とまでは言われないものの、先にどのようなグランドデザインを描こうかと悩んでいた時期です。


   活路は観光にあったようで海にはヨットハーバーや国際ホテル建設など猿丸市長は盛んに観光をキーワードにして「広報あしや」にプランの一端を発信していました。


   つまり国際文化住宅都市建設法は「国際観光都市建設法」を本来、行政が目指していたものでしょう。戦災復興と街づくりのために国の法律を取り込むなどしたたかな構想だったのです。

 

   国際文化住宅都市建設法の住民投票は昭和26211日に投票が行われました。

その住民投票の結果は、有権者数23,802名 有効投票13,237名 (内 賛成10,288名 反対2,949名)無効163名。77.6%の賛成で法律は成立したものです。


この結果で同年33に公布されたのです。

 

   しかし、556%の投票率でしかなかったのは国際文化住宅都市建設法が当時国会承認事項であって、特に住民投票の意味が理解されていなかったことや戦後復興の最中のことだったので当時としては低い投票率になりました。


   当時の昭和26423日市議会議員選挙の投票率87%から見れば圧倒的に少ないのです。これには住民投票を管理する選挙管理委員会もびっくり仰天したと言われています。

 

   芦屋市の伝説の市長がこのようにリアリティーのある施策を通じて求めた芦屋市の姿は都市経営の先駆的な発想であったと私は考えます


次週は国際文化住宅都市 その2を投稿します。