あしや温故知新VOL57 芦屋市の誕生

 

「精道村から芦屋市へ」ということで誤解されている点もありますのでその辺をしっかりお伝えするべきだと考えました。


 検地記録は天正19年11月摂津一国高御改帳が残っているのですが、それによると打出村548石1斗7升、芦屋村492石9斗5升、三条村193石8斗3升、津知村106石5斗5升と記載されています。


 この石高は収穫した米穀の数量のことですが、太閤検地以降、土地生産高を米の量に換算して表示し、その土地の価値を表すものだと言われています。


   幕末の時代の記録では、打出945.839石、芦屋650.286石、三条202.03石、津知106.585石とありますので当時の打出村の規模が圧倒的だったということになります。

 

  近代では、精道村の誕生は幕府領(芦屋・打出)尼崎藩(三条・津知)と2分されていますが、ご覧の通り、芦屋市の前の精道村は、芦屋、打出、三条、津知とそれぞれ石高に差はありますが、合併して精道村になったのです。


  既に芦屋村(蘆屋)は名前として存在したのですが、精道小学校は1872年(明治5年)  西芦屋安楽寺に菟原郡芦屋小学校として開校しています。


   この名前は「養精修道」から命名されたものです。「精神を鍛え、道を修める」という意味です。

  これを新たな名前として村名にしたものなのです。


 明治2241が精道村が誕生しました。新村誕生のための議員選挙費用が芦屋・打出・三条・津知の4村での費用の割合の記録がありました。


  総額40円25銭。打出村18円31銭(252戸)芦屋村17円94銭7厘(247戸)三条村2円68銭8厘(37戸)、津知村1円3銭8厘(18戸)と財政負担を芦屋・打出が引っ張る形になっています。


打出市や打出小槌市になったかも知れなかったのです。

 

 実際はどうだったのかというと精道村の名前を使うことはあまりなかったようです。村民たちは、自分の住む旧名にこだわったという説もありますが、精道と言えば小学校の名前であって、地名には打出・芦屋・津知・三条を使っていたようです。

 

では何故、芦屋市の名前になったのか?というと意外なことですが、精道村役場以外は芦屋警察署、芦屋郵便局、国鉄芦屋駅、阪神芦屋駅、阪急芦屋川駅、芦屋電報電話局、芦屋遊園、芦屋高等女学校など村民は精道より芦屋を通称のように使っていたようです。


   しかし、打出は少し事情が違うようで規模が大きかった旧打出村の人々は市役所の設置を打出側に求めたり、さっきの石高比較をしていたようです。


   遺跡や古い伝説が残る打出は歴史文化資料も多いのですが、打出小槌町伝説で紹介しましたように、今もその感覚が残っています。

   例えば、だんじり(地車)祭りを芦屋市の秋まつりで現在は巡行しますが、その祭りの日程が打出天神の秋の大祭日後に芦屋秋まつりを行うことになれば参加しません。


  神様を存在しない時に御幣をつけた「だんじり」は巡行しないという意味なのです。

 

  さて、こうやって芦屋村、打出村が精道村をけん引し、三条や津知はじっくりと農業や製造業を育て、後に芦屋内のリーダーがこの地域から輩出されます。


そんなことがあって、4村の総力を持って一期に市に昇格したのです。

 

  芦屋市の市章は芦屋市の市章は、芦屋市がまだ精道村として知られていたころ、大正11年3月31日に制定されたものです。半円と4つの横線はそれぞれ山々と海を表しています。さらに、4つの横線は、精道村を構成していた芦屋・打出・三条・津知の旧4カ村の調和を意味します。半円は円満、平和に隆々として発展の勢いある旭を表します。

 

(余話)

  平成19年12月議会で私の尊敬する大先輩である故中村修一議員は本会議質問に登壇され、打出・芦屋財産区の質問に立たれておりました。


  私が知っている中で古い芦屋の歴史に触れ、その歴史の重要性を堂々と述べられていました。


「明治の大合併によって精道村が誕生した明治22年の市制・町村制施行当初からの長い歴史を有する制度であります(中略)打出芦屋財産区は尼崎の領地でありまして、その後、天領となります・・・・芦屋市打出芦屋という財産区の名称になっているのは、その関係であります」(中村議員の原文) 

  何故、芦屋打出ではなく打出芦屋財産区になったのでしょうか?

   石高に関する質問と現代につながる根拠を示していた質問でしたが、おそらくこの歴史に触れた質問は私の長い議員生活では本会議ではこの質問だけだったと思います。