あしや温故知新VOL 56 

齋藤幾太氏は芦屋・打出の恩人だった。

 

  大楠公戦跡碑が芦屋市にあります。

碑は打出の東の端、国道2号線の北側にある。建武3年(1335年)2月10~11日の楠正成と足利尊氏の打出合戦のとき、楠正成がこの辺りに陣を張ったと言われています。

 

  碑はこの地に広大なお屋敷をお持ちだった、実業界にゆかりの深い斎藤幾太氏(1859-1938)が建てられたものです。

土地(130坪)は斎藤幾太氏が提供し、建立費7600円の内、募金額は3000円集まり、残りの4600円は幾太自身が拠出したと言われています。





   それは、精道村村長の紙谷文次が「教化三団体の協力を求め」「三千円の募金を得て昭和十年二月十一日に記念碑が建立された」(今泉三郎先生『芦屋物語』(昭和48年)と記録にあります。

 

 昭和12年10月、精道村教化連合会は齋藤幾太氏の功績をたたえ、大楠公戦跡碑の境内に、幾太の胸像を建立しています。

除幕式典で、幾太は一場の所懐を述べ、令嬢利子が除幕した。とだけしか記録にはありませんが、惜しいことに、この胸像は第二次大戦中に軍に供出され、現在は礎石が残っているだけになっています。

 

 さて、斎藤幾太氏とはどんな人物だったのでしょうか?  私は凄い人が存在していたんだと感銘を受けたのです。


   明治38(1905)年に打出観音堂(現・打出天神社の北にある神宮寺)を会場に「打出夜学校」と呼ばれる教育施設を開講した方としても知られています。


    生徒が増加して施設が手狭になったため、明治41年、自邸の敷地に新たに学舎を立て、対象者は「打出村在住ノ青年ニシテ、小学教育ヲ終ワリタルモノ」で、満25歳まで夜学校で勉強をさせたのです。(『新修芦屋市史』昭和61年より)。


   打出をこよなく愛し、不就学児童を集めて自宅で夜学校を開き、貧困者には毎月米を与えたので「打出の殿様」と呼ばれたと伝えられています。

 

   また、芸術文化を好み、打出焼を「打出丘陵の良質の粘土層に着目、京都から陶工を招いて、番頭の坂口庄蔵(屋号・砂山)に作陶させた」と記録に残っています。

 


   教育や芸術に私財を投入した齋藤幾太氏が芦屋市で語り継がれていないことは誠に残念なことです。

 

   芦屋市が教育の街として誇ることがあるとしたら、それは行政ではなく、このように私財を投じて「人づくり」に貢献された方々のお陰なのです。


つまり齋藤幾太氏が芦屋市の教育の礎を作られた人であることを私は大楠公戦跡碑に想いを馳せています。

 

 ■斎藤幾太の経歴

「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第88話。

そこでは、

  父久原庄三郎(1840~1908)は、山口県の酒造家で、幾太は3人兄弟の長男である。次男田村市郎は神戸市天王谷に閑居し、三男久原房之助(1869~1965)は衆議院議員、逓信大臣、久原鉱業の社長である。久原鉱業は日立製作所の母体でもある。日立製作所は、1910年に久原鉱業所日立鉱山付属の修理工場として発足した。

  

   齋藤幾太は、元山口県令(初代)中野悟一の養子になり、中野家の旧姓の斎藤姓を名乗るようになった。