あしや温故知新VOL55  戊辰戦争と打出陣屋

 

  平成29年6月15日号の広報あしやに「神戸事件と打出陣屋」が簡単に掲載されていました。

 

  1868年(慶応4年)1月1日の神戸開港直後に起こった神戸事件があります。 

   大丸神戸店の北東にある三宮神社(神戸市中央区)境内には、「史蹟神戸事件発生之地」の石碑が建っています。この神戸事件は、神戸港が開港して1カ月あまり過ぎた1968年2月4日に起こりました・・・と始まっています。

 


 実は、この時、岡山藩兵たちが向かっていたのは、阿保親王塚古墳(翠ケ丘町)の東側にあった打出陣屋だったのです。

 

  昭和46年11月10日芦屋市が発行の芦屋市史によると1860年(万延元年)10月に陣営地を幕府から供与されるまでは4ヶ寺に分駐していました。

   打出村の親王寺にも公儀所が設置されました。

  長州藩毛利家の遠祖が阿保親王とされているので長州藩の阿保親王への敬愛する姿勢は現在も親王塚に残る石灯篭の設置などでも残っています。


 

  さて、1861年(文久元年)323に打出村字広野の地に陣屋が設けられました。打出陣屋に駐留していた長州藩兵300人が神戸に派兵され「陣屋」とは江戸時代の役所で、打出陣屋は外国船に対する海岸防備のため長州藩(山口県)が設置したのです。

 

   その大きさは記録では屋敷は2町余り、総敷地面積が5,433坪もありました。

1863年(文久3年)818に薩摩の中心の公武合体派が主導権を握り、三条実美以下の尊王攘夷派の公卿と長州・土佐両右藩を中心とする尊攘派の主張が破れるという政変があり、いわゆる「七卿の長州藩落ち」が起こったのです。

 

  1864年8月20日(元治元年)719に、京都で起きた武力衝突事件「蛤御門の変」により長州藩は敗走し幕府の長州征伐が始まったが、長州藩が幕府を大敗させ、1867年、慶応3年徳川慶喜が大政奉還をした同日倒幕の密勅が薩摩・長州・芸(広島藩)に下され、長州藩の約1,000名の兵は3隻の蒸気船とそれに曳航される帆前船(帆船)3隻に分乗し、芸藩の※万年丸に先導され1129に西宮沖に到着したが、幕兵200名が西宮にいたため、急遽、打出村の上陸し、宿営、親王寺に本営を置きました。

 

   12月1日に西宮六湛寺に移されましたが、遊撃隊(振武隊)94名を打出親王寺に駐屯させたのです。

 

   これは長州藩と打出のつながりでもある阿保親王の地の戦とはいえ、直ぐに引き払うことはあり得ないことでしょうから当然だったと考えられます。


 

  1868年(慶応4年・明治元年)127日から30に鳥羽伏見の戦いが勃発し新時代が到来した。打出陣屋の活躍は歴史的な役割を果たしたにも関わらず、語られることが少ない。  同年大州藩(現在の愛媛県大洲市あたり)と交代する備前藩兵約500名(岡山)が幕府側の尼崎藩をけん制するために、打出陣屋に向かう途中、神戸で家老日置帯刀の藩士、滝善三郎がフランス人を殺傷する事件が起こりました。


 

  西国街道を打出に向かっていたのですが、24、三宮神社の南で、神戸港に停泊中のフランス軍艦の水兵2人が岡山藩兵の隊列の前を横切ったのです。この無礼に激怒した第3砲兵隊長の滝善三郎正信が、槍でフランス人水兵を切りつけ負傷させた結果、開港を祝って神戸港に軍艦を集結させていた列強諸国が神戸中心部を軍事占拠し、深刻な外交問題に発展してしまいました。

 

  事件の解決には、明治新政府を代表して長州藩伊藤俊輔(伊藤博文)らが当たりましたが、結局、責任者の厳罰という列強諸国からの要求を受け入れざるを得ず、滝善三郎正信が同年32に切腹したことでようやく収束します。

 

  なお、滝善三郎正信の分骨は、三条町と神戸市森北町の市境付近にあった共同墓地に埋葬されたと言われています。以上のように、神戸港開港に伴い神戸事件が起こりましたが、この歴史的事件のひとつの舞台として芦屋は深く関わっていたのです。

   同年に久留米藩、さらには尼崎藩へ行き継がれ、あけて明治2年3月下旬に撤去されて、歴史の彼方に姿を消してしまいました。

 

打出が歴史に登場することはありましたが、近代史にあっては、戊辰戦争開戦前、打出陣屋は重要な位置にありました。


 

その事を今回はたくさんの方々知って欲しかったのです。

 

明治4年714 廃藩置県が断行され、第2次1120に芦屋村・打出村・三条村・津知村が一緒に行政権になったのはこの時が初めてでした。

 

 【参考】

 

※万年丸は1864年にイギリスのラナルクシルで建造された。原名「キンリン」。1865年9月17日、7万5千ドルで薩摩藩が購入した。本来の用途は輸送船であったが新造艦で性能が良好だったので武装して仮装軍艦として使用された。翌年5月には安芸広島藩に売却となった。

 

※鳥羽伏見の戦い前の長州藩兵の輸送には芸州藩が協力しており、この万年丸が使われた。慶応4年、戊辰戦争中の柏崎で暴風に遭い沈没した。