あしや温故知新VOL53    親王寺〈阿保山親王寺)

 

「親王寺」打出町の国道43号線の北側に、阿保山親王寺があります。この寺の言い伝えでは、芦屋と関係の深い在原業平(ありわらのなりひら)の父である阿保親王がこの地に住んでいたことから、約1150年ほども昔の平安時代にこの親王寺は建てられ、阿保親王の菩提寺とされたと建立の経緯が記されています。

 

  この阿保親王の子孫であるということで、長州(山口県)の殿様の毛利家は江戸との行き帰りに必ずこの寺を訪れ、しばしば進物を贈ったと言われております。


 

  また。阿保親王に関しては『続日本紀』の記事によって明らかにされていますが、打出の地で崩御されたことについては正史に記事がなく、親王の菩提寺として建てられたとされるこの阿保山親王寺に伝えられる文書によって確認する他はないようです。


  また、親王寺には江戸時代に書かれた「阿保山親王寺縁起」や、古鏡・銅鐸などの宝物があります。銅鐸は実際は親王塚ではなく、それよりより南の楠町の堂ノ上で出土したものとされている説もあります。

 

  打出の地には阿保天神社、阿保親王陵、阿保親王別荘跡地に建てられたという親王寺などが阿保親王にゆかりがありますが、しかし阿保親王が芦屋にいたという記録は残っていませんし、阿保親王陵の出土品の年代が阿保親王の時代より500年ほど古いという事から別の人物の墓との指摘もされているようです。

 

   これは古い時代を検証する場合には常に異説もある場合が多いのですから、敢えて記載をしておきます。

 

   さて、この打出の親王寺(しんのうじ)は阪神・打出駅の南東で、入口は国道43号線沿いにあります。旧国道、旧西国街道浜街道沿いにあたり、旧国道はここで右側の国道43号線と一緒になっています。

 

  承知11年(884年)に在原業平の父君、阿保親王(あぼしんのう)のお屋敷の跡に建てられたお寺だそうだ。もともと、このお寺は宗満寺と呼ばれていました。


 

さらに時系列を進めると

  天文24年(1555年)、山論(土地争い)から芦屋庄の住民が逃げてしまうという事件が起こりました。

 

  永祿3年(1560年)に住民は戻って来たけど、逃げた先で浄土宗に改宗していたので寺を浄土宗の寺とし、名前を親王寺と改めたとのこと。親王寺は知恩院の末寺になるそうだ。

 

   この親王寺は平成5年の阪神・淡路大震災で非常に大きな被害を受けましたが、現在は綺麗なお寺に改築されています。

 

そうそう、この親王寺の沖を通過する船は、必ず帆を下ろさなければならないって言い伝えがあります。

 

  そのまま通ったら阿保親王の御魂が無礼を怒り、たちまち海鳴りがし、海が荒れて船が転覆するそうだ。これを“打出沖の海鳴り”と言うらしいのですが、実はこの伝説は親王寺ではなく、阿保親王塚が海から見ることが出来た時代にこの海域を通過する船舶は帆を下して通過する慣例が伝説になったと言われたものだと思われます。


 打出の漁師さんたちは阿保親王に対して礼を尽くしたとされ、明治維新時代は陸路の他、長州兵が船でこの打出浜で上陸して鳥羽伏見の戦いにはせ参じたとも言われています。

長州と水軍にはいにしえから縁がある瀬戸内の海の民の伝説は数多く残っています。



 

 

  なお明治5(1872)年頃、打出初の学校である、打出村尋常下等小学校が、この親王寺の庫裏(くり)を仮校舎として開校した。

の記録が残っています。このお話しはまた別に・・・