あしや温故知新VOL45  「キネマ芦屋撮影所」


   アシヤ映画製作所は1925年に設立されています。兵庫県芦屋市にかつて日本の映画製作会社が存在していました。「芦屋映画製作所???」みなさんは不思議に思われたでしょう。


  1920年(大正9年)、帝国キネマが設立後に「大阪支社」とともに時代劇スタジオを持つ東大阪市の「小阪撮影所」と、1923年(大正12年)、兵庫県の現在の芦屋市内に「帝国キネマ芦屋撮影所」を建設し、開所したという記録があります。場所はおそらく、開森橋の西側ではないかとされています。

  これが帝国キネマ芦屋撮影所です。1923年 ~1925年の3年間しか存在していません。


  同社の伊藤大輔氏によれば、「小阪が時代劇、芦屋が現代劇という建前になっていたが、実際は芦屋には事務所しかなく、セット撮影はすべて小阪で行っていた」と証言している記録が残っている。しかし1925年初頭、同社を退職した石井虎松氏が同撮影所を完全に独立させ、「アシヤ映画製作所」を設立。新体制の「帝国キネマ社」に作品を供給していたのです。


 しかし、これも短命で1926年内で閉鎖されています。宝塚映画は阪神間の映画文化で、大正時代から始まり、1923(大正12)年の関東大震災で東京の撮影所が壊滅的打撃を受けたのを契機に、帝国キネマが芦屋で映画製作を開始した。西宮・甲陽園にもスタジオがあったが宝塚では1938(昭和13)年、旧宝塚ファミリーランド内にスタジオが設けられ、「映画の街」の歴史が始まったとされています。


 時代考証からは阪神間の映画製作の発祥は「芦屋市」ではないかと専門家はいう。

 

   実は私がこのアシヤ映画製作所の存在を知ったのは初代芦屋市長「猿丸吉左エ門」が昭和24年創刊の「広報あしや」に「真夏の夜の夢」と称して、寄稿されているものを見てからです。


   その中で豪客船で米国大統領が2千トンのヨットで芦屋海上ヨットハーバーまでやって来て、芦屋ストランドホテル(架空)の描写がある。その中に芦屋キネマの世界的女優のスターたち50人と歓迎パーティをやっているのです」これは夢の話ですが、芦屋キネマの世界的女優・・・まさか?と思って調べたら実在したお話しだったのです。


代表女優は歌川 八重子(うたがわ やえこ、    

1903年8月22日 から1943年9月13日)本名、深川 政江。兵庫県神戸市兵庫町に生まれる。神戸市立女子商業学校を中退。


   1918年(大正7年)神戸の聚楽館で井上浩一座のオペラを鑑賞したのがきっかけで舞台に立つ。

松竹蒲田撮影所に入社し、『野の花』(監督:賀古残夢)で映画初出演。


    松竹の看板女優である栗島すみ子に似すぎているという理由で1925年(大正15年)帝国キネマを退社。アシヤ映画に参加するが、1926年(大正15年)アシヤ映画が帝国キネマと合併したのに伴い復帰してます。


   男優としては市川 百々之助(いちかわ もものすけ)1906年(明治39年)58 から1978年(昭和53年)115日)は、歌舞伎役者で映画俳優、映画監督の3刀流をこなしています。


   サイレント映画の時代に「ももちゃん」の愛称で親しまれ、全盛期には阪東妻三郎と人気を二分するチャンバラ俳優であった。戦後は芸名を百々木 直(ももき なお)と名乗った。


  本名は上田 直正さん。

  他の作品に「桐野利秋」「逆流の血」「若き日の忠治」人気作品と言われ、データーベースにはありますが、実際フィルムの存在も確認されているものとそうでないものがあるようです。


いつか芦屋で作成された作品が上映公開されることがあればと願っている一人です。

 

映画の街芦屋「阪神モダニズム」は確固たる功績を残しているのです。


写真は伊藤大輔監督の写真

下は歌川八重子さんの写真