あしや温故知新VOL42

白洲次郎のダンディズム その1

 

「近代史に登場する人物で好きな人は誰か?」と尋ねられたら幕末では「坂本龍馬・土方歳三」、昭和史では私は一番にこの人の名前をあげるでしょう。


「われわれは戦争に負けたが、奴隷になったのではない。」流暢な英語、しかもケンブリッジ訛りで英国紳士風な発音であった。

LEVI’S 501XXを日本で初めて履いて写真撮影、当時48歳。


ジェームス・ディーンを彷彿とするような白Tシャツにジーンズ、シンプルスタイルです。

 ファッションに拘り日本のダンディズムを象徴する存在なのです。スーツは全てイギリススタイルのビスポーク英国紳士らしいトラッドスタイル。




   この人物こそ、芦屋市で誕生した「白洲次郎」

芦屋市内のどこにお屋敷があったのか?などが謎で資料もほとんど残っていません。


   白洲 次郎は、1902年(明治35年)2月17日、兵庫県武庫郡精道村(現・芦屋市)に白洲文平・芳子夫妻の二男として生まれ、1914年(大正3年)旧制第一神戸中学校(のち兵庫県立神戸高等学校)に入学し、サッカー部・野球部に所属しています。


  しかし、手のつけられない乱暴者として知られ、当時の白洲家にはすぐ謝りに行けるよう菓子折りが常備されていたという逸話があったそうです。


  アメリカ車ペイジ・オートモビル(Paige Automobile )のグレンブルックを父親から買い与えられて乗り回しており、級友等を同乗させて神戸界隈をドライブしたようです。


 

   神戸高校を卒業後19歳で渡英し、ケンブリッジ大学のクレア・カレッジ・スクールに留学します。その時期を前後して、白洲家は芦屋から伊丹に転居しています。


  父・白洲文平氏の事業も順調で、建築道楽と呼ばれている文平は、阪神間各地に豪邸を建てていました。伊丹市の白洲屋敷は、約4万坪もあり、美術館や牡丹園があり、その規模も最大でした。


   昭和3年に白洲商店が昭和金融恐慌の煽りを受け倒産したため、伊丹以外の邸宅などは処分します。事業破たんの影響で、次郎も英国から帰国しています。留学中は西洋中世史、人類学などの授業を聴講したようです。なお白州は学士号を取得していないし、この大学を卒業もしていません。

 

  自動車をこよなく愛し、「オイリーボーイ」のニックネームを持つ。ブガッティ・タイプ35やベントレー・3リットル(1924年)を乗り回していた。


   7代目ストラフォード伯爵ロバート・セシル・“ロビン”・ビングと終生の友となり、1925年冬ベントレーを駆ってジブラルタルまでのヨーロッパ大陸旅行を実行した変わった経歴の日本人なのです。カメラはライカを所有していた。


しかもその豪遊に必要なお金は白洲次郎が全部持ったという、なんでも現在のお金に換算すると4,000万円の仕送りを受けていたというから白洲商会の莫大な財力が解ります。


つづく


白州次郎パート2は明日投稿します。

2018クリスマス記念として!