あしや温故知新VOL40   西宮市VS芦屋市


前回は神戸市VS芦屋市の合併問題でバトル!昭和25年を取り上げました。


今回はお隣の西宮市との話です。


   西宮市は中核市への移行(人口50万人に達していない都市は面積100k㎡以上)を目指していた。


   しかし、市の境界問題があり、国土地理院による西宮市の公表面積は境界問題が起こる以前の1987年に発表した98.52k㎡が最後であり、市は埋立地面積を加えて100.18k㎡を主張しますが、国土地理院の公表値でしか運用できないため移行が滞っていたのです。


「100k㎡に少し足りない。それが問題だった」

しかし、第28次地方制度調査会(国)で「面積要件については廃止することが適当」とされ、2007年11月16日の閣議で中核市への移行が決定し、2008年4月1日に中核市となった。


   芦屋市に隣接する西の政令指定都市「神戸市」、東の中核市「西宮市」、巨大な2都市に挟まれる形で国際文化住宅都市「芦屋市」が存在することになったのです。


 実は「西宮市はこれが喉から手が出るほど欲しかったのではないだろうか?」それが、今回の芦屋市と西宮市の境界問題なのです。

 

  1958年(昭和33年)、芦屋と有馬を結ぶ芦有道路建設で事件は起きた。

境界争いは同年、芦屋市が道路を建設する芦有開発株式会社に1坪当たり72円31銭で売却したのが始まりでした。


   西宮市は、明治時代の文書を持ち出して自分の市域だと主張。

  1878年に武庫郡(西宮市)が県知事に当たる県令に出した図面には、問題の土地は西宮市域に含まれており、それを認める芦屋の百姓総代の署名押印もあるとして猛抗議した。


  一方の芦屋市は、江戸時代の資料でこれに対抗した。1750年、大坂町奉行所が問題の土地の入会権をめぐる争いで下した「山論裁許状」と裏面の絵図を示し、芦屋市域だと反論したのです。


  協議は延々と続いたが「江戸時代の裁決で一つの結論が出ている」(芦屋市)、「新しい資料で判断すべき」(西宮市)とともに譲らず難航。

1962年、4年後に土地の評価額を半分にし、両市がそれぞれ固定資産税を徴収するとの覚書を交わし、一応の決着をみたのです。

 

 その後、この問題に触れることはありませんでした。


 西宮市土木調査課も「何とかしたい気持ちはあるが決定的な証拠があるわけではない。争いにしたくない」としている。


  先に中核市を目指す西宮市はどうしても面積確保や境界を確定したかったに違いないのです。

しかし西宮市は立派だった。一切、触れずに過去の歴史を紐解いて紳士的に臨んだのです。


  両市とも「友好関係を維持したい」と、問題解決に乗り出す気配がなかった。それは成熟した都市同士の判断であり、尊重するべき取り決めの内容となった。


  それは、当時から下水道完備を目指した芦屋市のし尿処理を西宮市が受け持つ変わりに、芦屋病院に「結核病棟」を建設し、西宮市の結核患者は芦屋市で治療を行った。

など、幾つかの広域化を早くから取り組めた自治体です。

 

  市域が確定していない土地は、芦屋市北部、西宮市西部の約19ヘクタール。宝殿ゲート東側で、人は住んでいませんし、市境が消えている地図も存在していますので一度見てください。

 

 さて、時は移って、平成20年6月17日の芦屋市会一般質問で取り上げられ、

  ある芦屋市議(調査不足)から「境界を確定するため、県知事に調停申請するつもりはないか」と質問があった。市長は「これまで不都合は一度も生じていない。両市はいい関係にあり、こちらから石を投げて波紋を広げるようなことはしない」と答弁した。


 寝た子を起こす質問だったように私には思えた。・・・・町々には色んな歴史が存在しています。

   芦屋市や隣接している神戸市や西宮市にも同じように存在しているものです。


 この境界問題は昭和33年から始まり、4年後の昭和37年双方の知恵で決着しているものです。

それから46年後にこの問題に決着を求めることにあまり意味は感じませんでした。