あしや温故知新VOL39

神戸市VS芦屋市最強のバトル

 

昭和25年6月26日発行の広報「あしや」第7号にこんな記事が掲載されていた。

芦屋・本庄・本山三市村有志の懇談会記録だった。

 

  タイトルはともかく、芦屋市民・本庄・本山両村民の代表約30名が合併問題について議論している。


  芦屋市になるか、神戸市になるか・・。記事によると本庄村の村議会が村民投票の手続きをせずに、神戸市合併を決めてしまった。


   本庄の代表者は「精道村時代から切っても切れない関係があり半数以上の村民は芦屋市と一緒になるのを望んでいる」と発言し、本庄村からの合併に際しての要求のすべてを芦屋市側は受諾すると回答したことに対して、「こちらから条件を出しておきながらこれを満たしていたのに、拒否したことは相すまぬことです。

   住民の一人として深くお詫び申し上げる」と謝罪しています。

広瀬勝代さん(芦屋市代表)は「小さな芦屋の情熱を買っていただけないものでしょうか?」と美しい芦屋愛を述べておられます。


 故杉岡芦屋市長が提唱した甲南市(仮称)構想は「本庄・本山両村と芦屋市が事実上一つ屋根の下で生活をしている関係を分断させていることを懸念したことにある」とその合併の意義を述べておられます。


   オブザーバーとして出席されている山村芦屋市議会議長は「ヨットハーバーの建設・山間部では奥池と有馬を結ぶ県道の開通を実現すること」を約束して合併を完全に支持しています。


 本庄村の代表者は「芦屋市は宣伝が下手で真面目過ぎる。合併記事は神戸市合併派が喜ぶ内容で、針小棒大に誇張して芦屋が不利になるように神戸派が仕掛けている」とばっさり切り捨てている。

「遠くの神戸より近くの友情溢れる芦屋市と合併したい」、一方、本山村の代表は議会のリコール運動を展開しているようで7対3で神戸と合併反対ということを発言されています。


  猿丸芦屋市長は「芦屋を愛する兄弟たちを神戸にさらわれることは吾々としても忍びない。4万人芦屋市民は隣の本庄・本山両村と一緒になることを希望しております」

広報「あしや」には本庄村のみなさんへとあいさつ文も掲載しています。


ですが、


   神戸市東灘区のホームページには

「本庄、本山の両村でも住民投票やリコール運動の末、「1948(昭和23)年、神戸市は五ヶ町村に対して正式に合併を申し入れたが、その後、芦屋市も同様に合併を申し入れた。(中略)神戸市と合併し、現在の東灘区の区域が出来上がったのである」と解説されているだけで背景に広報あしやにあるような内容は掲載されていません。


   ウィキペディアでも「本庄村の場合、芦屋市との合併(合体)を行うか、神戸市に編入するかが問題となった。」と簡単に解説されています。


   そして、神戸市は昭和25年10月10日に合併したと言っているが、この広報あしやの伝える懇談会の記事には昭和26年6月14日時点では合併が承認されていないようです。


事実誤認かこの歴史を葬る行為か?


   そのことより、私が興味を持つのは、当時は財政的にも政治的にも神戸市が巨大な力を持っていたにもかかわらず、芦屋市が合併しようとしたその背景が市民と市行政が一体として取り組んでいると書いているこの広報あしやを神戸市が見たらどう思ったのだろうか?


この思いから敢えて歴史に問いたい。

 

  もし、この本庄・本山が芦屋市となっていたら、きっと中核市として住宅都市のイメージは更に磨かれ輝きを増していただろうと想像ができます。

  本庄・本山両村も神戸とはまた違った意味で発展したことだろう。

 

   私の曾祖父角之助さんは本庄村で寺子屋をやっていたと聞きます。叔父さんたちの多くは本庄村から出征し帰らぬ人となっています。


    父は新明和工場で3式戦闘機「飛燕」のラジエーター作りをやっていた時に空襲を受け、多くの友人を亡くしています。多くは芦屋市立宮川小学校の子どもたちだったのです。


    芦屋川河口で地引網をやれば深江在住の外国人たちも参加し、多くは深江や青木の人たちが引いていた。水産加工業者は芦屋、深江、青木のどこかで生産活動を行っており、生活圏は芦屋市にあったのです。


芦屋市と本庄村は「引き裂かれた地域」と言っても過言ではありません。

 

芦屋と神戸にはこんな歴史もあったんですね。


(本庄村とは神戸市東灘区、深江、青木、魚崎の一部。

本山村とは神戸市東灘区の岡本あたりを指します。)