あしや温故知新VOL.33


  阿保親王は平安遷都の2年前の延暦11年(792年)に、平城(へいぜい)天皇の第一皇子として生誕。桓武天皇の孫にあたり、在原業平の父です。本来なら天皇になるべき人物だったのですが、平城天皇が寵愛していた藤原薬子が平城京の再遷都を画策し失敗します。




「薬子の変」(810年)に関わったとされて太宰府に追放され、その後、弘仁15年(824年)に叔父の淳和天皇の恩詔により帰京を許されます。


承和9年(842年)の承和の変の時には謀反を未然に防いだという功績をあげたが、同年に51歳で打出(現在の芦屋市)地でこの世を去ってしまいます。


  延暦4年(785年)芦屋の地は別荘地として旧貴族たちに人気の特別な地になりました。阿保親王も別邸を構えています。

  親王はこの地とこの土地の人々を愛し、親王塚に黄金一千枚と金の瓦一万枚を埋めて、万が一飢饉の時にはそれで飢えを凌ぐようにという「金津山」伝説も残っているぐらいです。 



 

 さて、戦国の毛利家は大江音人の末裔であり、音人の実父とされる阿保親王を祖と仰ぎ、阿保親王を大変敬います。江戸時代の参勤交代で歴代の藩主は芦屋にある阿保親王陵と菩提寺に参拝しました。同時期には長州藩が親王塚の大改修もおこなっています。




 一方で、阿保親王が芦屋一帯を所領して、打出で没したという記録は正史にはありません。しかし、親王とこの地を結ぶのは伝説や伝承だとしても、今なお芦屋の人々は阿保親王に親しみを持っています。




  長州藩、毛利家とは縁のある私の曾祖父の長谷角之助は摂津の漁師たちとこんなことを年に一度行っていたといいます。

  当時の芦屋浜から親王塚が見えていました。芦屋浜の沖を行く船は帆を下げて親王に敬意を表したと大昔の伝説を再現したお祭りだったようです。



 

 現在の阿保親王塚は宮内庁の管轄で、特に認められた地域の皆さんの力によって運営管理補助をしています。また、毎年12月の命日には正辰祭が行われています。

  正面にある4対の石燈籠は長州藩主毛利候の寄進とされているが、うち一対が阪神大震災によって失われてしまいました。


  この親王塚にはこんな看板が書かれています。

平城天皇皇子

阿保親王墓

一、みだらに城内に立ち入らぬこと

一、魚鳥等を取らぬこと

一、竹木などを切らぬこと

宮内庁 




  これによってカラスの巣の退治や伐採を勝手に出来ませんし、神聖不可侵の鎮守の森として子供たちもおいそれとは立ち入れなかった特別な場所です。

カラスたちにとっては天国のような安全地帯になっています。


⬛️次回の「あしや温故知新」は金曜日に毎週の投稿にさせていただきますm(__)m

公務に今日から復帰しますので、よろしくお願いします。