娘子(をとめ)らが、放(はな)りの髪を、由布(ゆふ)の山、雲なたなびき、家のあたり見む
万葉集 第七巻の一句です
飛鳥時代、朝鮮に出兵した戦い(白村江の戦い)では、天皇は福岡県の朝倉宮にはいり指揮をします
豊後はその後方支援地として、多くの兵が出兵していきました
その兵士が読んだものであろうと言われています
その兵士には、家に残して来た幼い娘でもいたのでしょうか?
豊後国府から出発した兵士達が古来の豊後道を通り、由布岳の裾野から由布院、そして玖珠、日田と向かう道すがら、由布岳を振り返って読んだのでしょう
幼い間は伸ばしたままにしていた髪を、少女として成長すると、頭の両側にお団子のように結い上げたそうです。その「結う」から、娘の髪の形に似た由布岳を引きあいに出し、どうか雲よ由布岳の山頂にかからないでおくれ、家の方角を見たいから、と残してきた家族のことを思ったのでしょう
由布岳は大分のランドマークとして海からでも遠くから見つけられます
さて由布岳、由布院、由布川と「由布」が地域を代表する冠になっている由布市です
かつては、由布院村(北由布村、南由布村)や由布川村という行政区もありました
この「由布」がなにから来たものかご存知ですか
万葉集の原文はこちらです
未通女等之 放髪乎 木綿山 雲莫蒙 家當将見
昔は由布岳を木綿岳と書いていました
読み方は「ゆふだけ」です
また豊後国風土記には
「此の郷之中に栲樹多く生す、栲の皮を取り、以て木綿(ゆう)を造れり、因りて柚富(ゆふ)郷」と曰ふ」
とあり、楮(こうぞ)や栲(たく)の木が多く自生し、これを材料に木綿(ゆう)が作られ、木綿の里と言われるとあります
この「ゆう」は、旧仮名遣いで「ゆふ」と読みます
現在の木綿(もめん、コットン)は、16世紀に海外から持ち込まれたもので、その時に木綿(もめん)となったそうです
昭和初期の由布市地域を扱った小説をご紹介します
由布院、塚原、湯平といった由布市地域の、戦前、戦中、戦後期の様子を情緒豊かに描いた作品です