由布川渓谷観光協会の田邊会長とお話できる貴重な時間がありました。
私は観光協会会員ではありますが、別にお役があるわけではありませんので、会長とじっくりお話できるのは大変貴重です。
会長とは由布川渓谷への道しるべ「いかだの看板」づくりでお手伝いさせていただきました。
挾間町の貴重な自然環境を守りつつ由布川渓谷をどうアピールしていくのか。
会長のお話をじっくり伺いました。
今年は由布川渓谷にすごい数の人が訪れました。
テレビや雑誌、新聞ではたくさんの特集があり、会長も大忙しだったようです。
そのかいあって由布川渓谷の認知度があがりました。
そんななかで私的に思ったのは、いかに地元の人が由布川渓谷に行っていなかったか。
知り合いの若いお母さんが、子供をはじめてつれて行ったとか。
じつは行ったことがなかったとか。
今年は会長ががんばっていただいたことで、大いに地元にもアピールできたと思います。
そしてこれからのこと。
由布川渓谷自体はアピールできました。
でもよく言われること、よく話題になるテーマ。
「由布川渓谷までの道が細くてわかりにくい」
道が分かりにくいということで、今年は由布川渓谷までのルートに看板を設置しました。
道が細いということは、現在関係各所で協議中だそうです。そのうち良くなるでしょう。
では、それまで私たちはただ黙って道が良くなるのを待つのか。
できることはたくさんあるはずです。
大分から宮苑を通り、古野、赤野、東行、朴木に続く由布川渓谷までの道は、古くからの大変重要な街道でした。
飛鳥時代の朝鮮の役には、この豊後道を通り、豊後の兵がふるさとを後にします。
奈良時代には、この豊後道を、豊後国一円の租税を都まで運ぶ牛馬が行き交っています。
南北朝時代には肥後から菊池氏が、戦国時代には薩摩から島津氏らが、この豊後道を高崎山に攻め込んできます。
江戸時代には、日田代官所と高松代官所を結ぶ政治的にも大変重要な街道でした。
赤野には幕府一行のための宿泊所があり、東行にはお茶屋が藩命で設置されています。
歴史あふれる由布川渓谷への道。
どうですか。
くねくねと細くなんとなくグレーな景色が、苔むした路肩の石ころが、年輪を重ねた通りの並木が、まばゆい色彩を放って見えてきませんか。
車では細くて通りにくいかもしれないけれど、こんな歴史を感じながら行くとまた違った楽しみがあるのではと思います。
無い事を嘆くのではなく、いまここにあるものを、もう一度見つめなおして大切にしていく。
これが大事なことではないでしょうか。
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