狭間氏の本家、大友氏が鎌倉幕府により豊後の守護職に任命され、相模国大友郷より一族1800人とともに豊後入りするまで、豊後一帯は大神氏が支配していた。
大神氏は、鎌倉時代以前の平安時代、豊後武士団の中心的存在として力を持っていた地方豪族である。
大神氏の出自には二説あり、宇佐神宮の神官であった大神氏の庶子であるという説と、豊後国府の国司であった大神氏一族が任期後も豊後に残ったという説である。
奈良時代に制定された大宝律令では、地方豪族の農民に対する指揮権を剥奪し、農民兵士の指揮は軍団の軍毅が持つこととされた。
軍毅は都から派遣される国司の指揮下に入ることから、武士団をまとめるほどの力を持つ為には、後者の大和大神氏の流れのほうが正しいと思われる。
また平安末期には、荒野を開発した領主の農民に対する支配権が認められていた。
そのような中で大神氏は豊後一円に一族を土着させ、地域を開発支配するようになる。荘園化(私領化)の始まりである。
阿南・大津留・武宮・小原・由布院・吉野・橋爪・光吉・植田・田尻・十時・入倉・松尾・大野・朽網・敷戸・臼杵・緒方・戸次・佐伯・加来・野尻・佐賀
など各地に住み着いた大神一族である。
当時の挾間地域は、大神一族阿南氏支配下の豊後国大分郡阿南郷内にあって松富名と呼ばれていた。